【無料公開中!】【職場改善note有料マガジン】No.0023・・・他の誰かに意識を囚われし集団の仕事にはミスが付き物
【1】実のところ・・・
他者のことばかり悪く言う人間は、口先ばかりで仕事のことも他者のことも本気では考えてはいないため、自分では直接動こうなどとは思っていないのです。それには「リスク」があることを知っているからです。
「木乃伊取りが木乃伊になる」という言葉をご存じでしょうか。 ミイラを取りに行った人がミイラになる、読んで字の如し。 ミイラを漢字で書くと「木乃伊」と書くんですね。 今初めて知りました。 どうでもいいことですね。 以前から言っているように、「私は人を選ぶ人間」です。 なぜ人を選ぶのか。 そして、人を選ばずに誰とでも仲良く接することのできる人間がどれほどいるのか。 人間関係には正解がない、私はそのように思います。 誰とどんなふうに関わるか、これは他者次第ではなく、基本的には自分次第ではないかと思うのです。
よく、執拗に恩を売るようなマネをする人間を見ることがあります。 恩を売っておけば後に売った以上の恩が返ってくると、そんなふうに信じている人は少なくないようです。 3月と4月に、同じ職場の60歳を超えたおじいさんから食事に誘われました。 もともと私はそういう誘いには興味がないため断ることもできたのですが、その、「訳の分からない誘い」にも一度や二度くらい付き合ってみるのも悪くはないなと思い、誘いに乗ることにしたのです。
そこには、これまた別の部署の30代の女性もいて、彼女とは全く接点がなかったわけではなく、年末から年明け以降、およそ半年くらいに亘ってとある仕事を一緒にやったことがある人でした。 60を超えた年配社員がなぜその女性と私を誘ったのかは一目瞭然でした。 彼は、ただ単に若い女性と食事をしたかっただけで、私を誘ったのは完全にオプション。 それも、妻子持ちの人であるため、おそらくこの歳でも若い女性と二人で食事に行くのは気が引けたのでしょう。 私を食事に誘った理由、よくわかりませんよね?(笑)
3月に1回目に誘われた時には、私は早く帰りたくて仕方がありませんでした。 食事をしながら話すわけですが、ハッキリ言って私個人としてはお二方に対しては全く興味がなく、自分から話そうなどとは思っていなかったため、ただひたすらにおじいさんと女性の様子を見ながらただひたすらに食事を口に運ぶだけで、ちっとも面白くない。 面白くなかったけれども、2回目も行ってみようという変な好奇心が湧いてきて、4月に誘われた時も快く誘いを引き受けて行ってみたわけです。 この謎は私の興味を惹くものでした。
そして2回目の食事の日、1回目と同じお店、中華料理屋で食事をしたのです。 同じ面子で。 状況は1回目と全く変わらず、同じく面白くない。 ただですね、1回目と違うことが起きました。 60を超えたおじいさんと30代の女性が隣同士に座り、私は向かいの席に座り食事をしていました。 すると、おじいさんと女性が「あーん」しているわけです。 大変失礼ながら、その光景は介護そのものでした。 なるほど、若い女性にそういうことをしてほしいが故に食事に誘ったのだと推察しました。 その光景を私に見せることで、おそらくは優越感すらも感じたに違いありません。
こんなことに付き合わされる側の気持ちなど全く無視した様子でしたからね、5月の3度目の誘いを全力で断ると、後日、二人で食事に行ってきたことをわざわざ私に言いに来ました。 「せっかく2度も食事をおごってやったのに誘いを断りやがった」というおじいさんの恩着せがましい性格がひしひしと伝わってきましたね。 まさに、彼こそ恩を売って得をしようと考える性格をしていたわけです。 すると彼は自分の口でこう言いました。 「何も返してもらえない」と。 一体何を言っているのか理解の範疇を超えました。
人に何かを与えれば何かを返してもらえる、そういう概念で生きてきた人なのだと私はすぐにわかりました。 こちらが求めたわけでもないのに恩着せがましく与えようとする人間に対しては、私は何も返す気にはなりません。 人間関係とはそれほど単純なものではないからです。 「食事をおごってやったんだから感謝くらいしろよ」と、そういう心の声が聞こえてくるようでした。 確かに、食事が済んで帰る時には「ご馳走様でした」くらいは言いましたけれどね、感謝に至るほどの恩を受けた覚えはありませんし、彼自身が望んだことですから、誘いに乗った時点で彼の望みは満たされたはずです。 そもそも私は望んでいないのですからね。
あまりにしつこく誘って来る人間に対しては、1度もしくは2度くらいは誘いに乗ってやってもいいでしょう。 しかし、そう何度も誘いに乗るわけにもいきません。 おそらくですね、彼は毎月1回のイベントとして彼女を誘い食事に行くことにし、その時間を買うことで感謝されようとしているのかもしれません。 再雇用勤務ですから、長くてもあと2年ほど。 この職場を去ってからも自分のことを忘れてほしくない、そう思うのは人間の性なのかもしれません。 40年以上も勤めた会社ですからね。 無理もありません。
しかし、私はというと、きっと小中高大で関わった全ての人たち、過去努めたいくつかの会社で関わった全ての人たち、誰一人として私のことなど覚えているとは思えません。 反対に、私が覚えている人は、10名ほどです。 この35年余りで10名の人の顔と名前を憶えているくらいです。 記憶として思い起こせる人の数が問題なのではなく、自分にとってどんな存在であったかが大事なのです。 損得を抜きにしても関わってこれた人が、あなたには何人いたでしょうか。 「損得を抜きに」という部分がポイントです。 かなり限定的な存在ではないでしょうか。 一つは家族。 しかし例え家族であっても、損得が激しいときっと保たれないでしょう。
再雇用社員は、給料が一般社員よりも安いですから、仕事に対する熱も冷めてしまうのかもしれません。 するとですね、余計なことに意識を囚われてしまいやすくなるわけです。 世間ではこれを「老害」と呼んでいるようですが、一括りに老害と言ってしまっては具体性に欠けてしまいます。 はい、ここまでの話は単なる一例に過ぎません。 世の中には、年配社員に悩まされている方は少なくありませんし、反対に、若い社員に悩まされている方も少なくありません。 会社勤めをしている人たちのうち、職場の人間関係に悩まされている人も当然いるでしょう。 この後は、私が働いている職場のとある部署の社員について語っていきたいと思います。
【2】嫌われ上司の言動は精神的病の可能性を示唆していた
つい昨日のこと。 緒方(仮名)という上司のことについて、彼の部下である佐竹(仮名)という人物が私に電話をかけてきました。 私より2つ年下の男性社員です。 5時間以上も話すことになるとは思ってなくて正直驚いています。 その会話の中で、佐竹くんがある言葉を発しました。 「上司が同じ言葉を繰り返す」と。 そして、「あとで調べてみるわー」というようなことを続けて言いました。 彼はですね、上司がアスペルガー症候群なのではないかということを全く気付いていない体でこういうふうに言ったと思うのですが、知らなければピンポイントでアスペルガー症候群の代表的な症状を示すことはないと思います。 彼は、上司がアスペルガー症候群ではないかという勘ぐりをした上で言ったのです。
私はですね、相手が話す内容に対しては相手が話したいから話しているのだから別に不思議には思いません。 しかし時にノイズが走るのです。 内容そのものに対してであったり、言葉・表現・フレーズに対してであったりです。 それも、今回「同じ言葉を繰り返す」という言葉を彼が口走る時、妙に違和感を覚えました。 なるほど、彼は事前にアスペルガー症候群に関する情報を仕入れた上で自分の上司をアスペルガー症候群だと言いたかったのだと、電話を切った後に会話の全てを反芻して気付きました。 彼は会話のセンスに関してはイマイチです。 彼と顔を合わせると、必ず上司のアレコレに対して見下すような言い方をします。 決して褒められたものではありません。
彼と上司との間で起こった事実を、とにかく話のネタとして話そうとするのです。 あなたの周りにもいませんか? 対象が上司であったり、同僚であったり、部下であったり。 一企業の職場というのは、一つの世界であり、一つの社会でもありますが、その空間は極めて狭いと私は思います。 その狭い空間において同じ部署の上司に対する陰口のようなことを連日のように話したがる彼、佐竹くんは果たして正常だと言えるのでしょうか。 いえ、彼だけではありません。 彼の他にも、他人のことを話のネタにしてバカにしている人は何人も見受けられます。
精神の在り方に正解はあるのかと問えば、究極は宗教的な精神ではないかと思います。 キリスト教、仏教、儒教、ヒンドゥー教、イスラム教、それぞれには派閥が存在するために、内紛が起こっている宗教国家もありますね。 ズバリ、仕事における精神の在り方にも思想の違いはあると言えます。 例えば、作業中にベラベラと私語が止まらない人の観念は、「別にしゃべってたっていいじゃないか」というものかもしれないし、職場の仲間内で愚痴を言い合って傷をなめ合う人の観念は、「愚痴って何が悪い?」というものかもしれない。 実際に、佐竹くんは愚痴ることを正当化するような発言をこれまでに何度かしています。 私はですね、彼の思考の本質に目を向けたのです。
メンタルヘルスの観点から言えば、確かに愚痴を聞いてくれる人の存在は精神的な病を患っていらっしゃる方々にとっては非常に重要だということらしいです。 佐竹くんは、小4から中3までの六年間いじめられた経験があり、それもかなり陰湿ないじめだったことから「過去にリストカットをしたことがある」というような身の上話を突然私にし始めたことがこれまでに2回あります。 彼と出会ってから2年半の間に2回です。 普段の仕事で上司とのやり取りがどうであったかについては、いくつかの出来事をループ再生しているかのように何度も同じ話をする癖があるようなのです。 その度に、上司のことを「あの人」や「アイツ」など、固有名詞を避けて話しているようですが、本人の名前を言わなければいいというポリシーでもあるかのように自分の上司をとにかく罵倒するような軽率な発言が続きます。
仕事上、彼の身に降りかかる悪いことは全て上司が悪い、そして自分は悪くない、というアピールをする一方では、作業場のルールや作業分担など、本来管理職である上司がやることを以前は自分が中心となってやっていたというような話もします。 つまり、上司を上司と認めない働き方を彼自身が正当化しているわけです。 そんな彼がある日、上司からの評価について「普通」の意味の評価を受けたことに納得がいかないような話をしていました。 それもそのはず、仲間内では上司本人がいないところで上司を軽蔑したり人格を否定したりするような愚痴やら文句やらをしていることが、ほぼ間違いなく上司の耳にも入っていることも少なからず影響を及ぼしていると私は推察しています。
【3】いつまでも過去を持ち出す人間の心理とは
過去、どんなに辛い経験をしたとしても、そのことを現在において話すことで他者から同情を誘うようなことを言う人に対して私は理解を示そうとは思いませんし、過去、どんなに素晴らしい栄光があったとしても、そのことを現在において他者に自慢気に話す人に対して私は理解を示そうとは思いません。 なぜなら、過去は過去でしかなく、過去において人が経験したあらゆる出来事が現在の本人を等しく示すものではないからです。 言い方を換えると、私は「私が接する相手の今がどうであるか」を直視します。 人の過去には他者が知り得ない本人独自の苦い経験や素晴らしい栄光はあっても不思議ではありません。
本来であれば、自分が「他者に知られたくない過去」や「過去どんなことで深い傷を負ったか」ということを話す場合には、それこそ相手を選ぶべきではないかと私は思いますし、他者の過去をほじくり返すようなマネをすることはモラルに反することではないかとも思います。 リストカッターの気持ちがわかるのは、同じくリストカッターではないでしょうか。 非常に冷たい言い方にはなるかと思いますが、その辛く過酷な経験をしたことがない人にとっては理解には及ばないばかりか、その話を聞かされた側の人はリストカッターが求めていない言葉をかけることはできません。 寄り添うことができるのは、似たような経験をしている人かもしくは互いに愛し合っている関係にある人かであって、その経験をしていない誰もが理解できるような簡単な話ではないと思います。
社会には、心ない人間が存在しますし、そんな悪魔のような人間たちによって身体的に、もしくは精神的に傷を負ってしまう人たちがいます。 また、どんなに昔の経験であっても、後遺症としてずっと傷を抱えて生きていかなければならなくなる人もいます。 大変辛い人生と言えるかもしれません。 しかし、今は健常者として悠々と生きている人でも、この先の人生においてどんな経験をすることになるかは誰にもわかりません。 もしかすると、数年先に精神を病んでしまったり、大きなケガをしたり、身体的な病に侵されたりする可能性は十分に考えられます。 生きるということはそういうことです。
ですから、過去にどんなに辛い経験をしたからといって、それを何年経っても自らその辛い経験を会話の中に蒸し返して同情を誘うようなマネは、オススメできる行為ではないと私は考えています。 この思考は下手するとですね、怨恨の場合にも簡単にシフトしやすいのです。 何年か前に自分を裏切った相手をその後もずっと恨みに恨み続け、ある事をきっかけにバッタリ再会したとします。 恨みを晴らすチャンスだと思ってしまえば、殺すことだって考えてしまいかねません。 佐竹くんは、上司の緒方氏を今現在も嫌っています。 これまでの数年間の間に、事ある毎に嫌いになっていったというような経緯を聞かされてきました。
卑怯だと思いませんか? 自分が如何に辛く悲しい経験をしてきたかを、何度も何度も話して相手の同情を誘い、それだけではなく、現在においてもなお如何に上司がダメな上司であるかを顔を話す度に必死に話す行為。 言うだけ言って結局上司から見放されていることに気付いてすらいないのですから、結局のところ彼は自業自得という現実を見ることになると思います。 少なくとも私には救えない人物だと今は思っています。 しかし今後、本人が自分の意思で考え方を改めようと努力しているのであれば、きっと見方も変わるのかもしれませんが、過去に囚われている人の価値観や観念というものはそうそう簡単には変わることがありません。
リストカッターのことを「メンヘラ」と言うらしいですね。 彼らが言うには、ほとんど麻薬や危険薬物と同等の依存効果があると聞きます。 そして、こうしたことを話すのも彼らです。 手首の傷を撮影してネット上にアップロードする人もいますね。 申し訳ありませんが私には到底理解できる行為ではありません。 社会全体に自分の弱さを知らしめて、優しい声をかけてくれる人を探すということは彼らにとってはとても大事なことなのでしょう。 見ず知らずの人でも優しい言葉をかけてくれる人がいればそれだけで救われると思えるのかもしれません。 インターネットをどのように活用するかは本人の自由でしょう。 その点は否定しようがありません。
しかし、リアル社会では限度があるように思うのです。 先行したのはネット利用における行為によって同情の声が集まったことであり、後行してそのことが現実においても通用すると勘違いしてしまっていることです。 非常に危険な行為ではないかと私自身は思っています。 思考・精神・感情・理性・野性、これらの単語は人であるが故に切っても切り離せないワードなのです。 「自分をコントロールする」「感情をコントロールする」「理性を働かせる」「精神を鍛える」「野性的察知能力」など、いろんな表現がありますね。 言葉というのは本当に複雑で繊細だと感じます。 そして、言葉は扱い方次第で、自己説明ができたり、意思疎通ができたり、相手の言葉を理解したり、世の中の全ては言葉によって形作られていると言っても過言ではないでしょう。
精神が乱れれば、言葉が乱れ、表情や態度が乱れ、行動が乱れます。 その状態から脱却することなく生き続ければ、いずれ精神は異常性を宿すことになります。 その結果、精神の病のうち何かに診断が下ります。 病院に行けばの話ですがね。 異常性がある状態で自覚なく人と言葉を交わせば、誤解や偏見を招くようなことが起こる可能性もあるでしょうし、不毛なトラブルを引き起こしてしまうこともあるでしょう。 自分の精神状態は、自分ではなかなか測れないものではないかと私は思います。 そもそも、どうであれば異常なのかは専門家にしかわからないことでしょう。 反対に、どうであれば正常なのかは、対人関係が良好であれば問題ないかもしれません。
【4】自分の精神状態を測るには・・・
佐竹くんが先か、彼の上司である緒方氏が先か、それはわかりませんが、私が見る限り、今現在は両者とも精神に異常性を宿しているようにしか見えません。 しかし、どちらが先に精神が乱れることになったかというのは問題ではありません。 なぜなら、自身の精神に異常性があることをそれぞれが自覚することが先決だからです。 基本的に普段接している人たちはわざわざ他者の精神に異常性がある可能性を指摘することはしませんよね。 病院に行けばわかると言えますが、実は一つだけ「自分の思考を言語化すること」で自分の思考がどんなものかを自ら確認することはできますし、思考を言語化することで「ストレス発散効果」が得られると言われています。
自分が書いた文章を読むという行為は、他者から自分とは全く違う意見や提案をされるよりもずっと入ってきやすい文面です。 当然ですよね、自分で書いているわけですからね。 自分が書く文章を読むという意味での読み書き習慣は、自分のメンタルコントロールにも大いに関係があるわけです。 以前自分が書いた文章を改めて読んでみると、その時自分が何を考えて何についてどんな表現をしていたかということがわかります。 時には、自分が書いた文章とは思えない時も多々あります。 これは、良い意味でも、そして悪い意味でもです。
えー、職場でですね、他の誰かについて陰口を叩いている本人の精神へもたらす効果は、本人が思っている以上に自らストレスを量産していることになっているわけですが、そのことに本人は気付いていません。 ですから、ストレートに伝えてあげたわけです。 佐竹くんに。 しかしながら、日常的に誰かを悪く言う癖のある人間は、一向に理解を示すことをしません。 自分は間違っていないと信じ込んでいますからね。 まるで昔の私のようです。 私も自身の非を認めようとはせず、謝ることができない人間でしたからね。 なんとも不合理な態度を頑なに維持していたように思います。
親にも何度もウソを吐いてきましたが、ある時私はウソであることを自分の口から白状し、謝りました。 親にウソを吐いても見抜かれていることがほとんどで、ウソであることを白状する前からずっと、親はウソであることを知っていました。 その時思いましたね。 私はウソを吐いてもバレるのだと。 その頃から、本音で人と向き合うようになりました。 おまけに、一方的な個人の見立てだけではなく、他者の立場から見る捉え方も踏まえた上で思考を巡らせることも可能になっていきました。 ここに、私は面白みを感じるようになりました。 相手の立場に立って物事を捉えた上で思考を巡らせることに面白みを感じると、読む本、読む本、とても面白くなっていき、なるほどと思える頻度が増えました。
精神的に病んでしまった場合には、適切な窓口に相談することが大切であり、むやみに誰彼構わず愚痴るべきではないことは、健常者も正しく認識しなければならないと私は思っています。 理解するにしても、実際に経験していないことに対しては理解しようがありませんからね。 一番いけないのは、知ったフリ、わかったフリをして上辺だけの言葉を投げかけることではないでしょうか。 これは相手にとって本当の優しさではありませんし、誰に対してもそのように振舞い周りに合わせ続ければ、今度は自身の精神を病むことになりかねません。
【5】思考は全てに通ず
周りと違う視点で物事を捉えることも、周りの人たちの視点で物事を捉えることも、どちらもできるに越したことはありませんし、正しいか間違いかだけで考えるようになってしまっては中庸の精神に反する思考であることにもなります。 物事には必ず「落としどころ」があります。 感情を表出させる前に如何に素早く落としどころを見抜けるか、ということのほうがよほど重要なように思います。 まぁ、それができれば苦労はしないとも言えますが、できないよりできるに越したことはありませんよね。
大半の人がパニックを起こして騒ぎ立てるような状況でも、瞬時にどうするべきかを冷静に判断出来る人というのは、考えることも行動も全く別のものであるように思います。 大震災が起き、辺りで家事が起きている状況下ではほとんどの人が避難することを最優先に考えるでしょうけれども、一部の人たちは、彼らのために誘導したり救助に当たったりする行動を選択します。 地震大国であるこの日本では、全ての国民に関係することだと言っていいでしょう。 地震の被害に遭った時に自身がどういう行動に出るべきかは、心身共に安全な状態ならば避難するにも困っている人たち、特に女性や子供たちを誘導したり救助したりできるようでありたいと私は考えています。 人ひとりができることは実に限られていますが、それ故に、自分が真っ先に逃げ回ることを考えるよりも、そのように誰かのために動ける人間たちが一人でも多ければ、助かる命もその分増えるだろうと思うわけです。
職場において、自分ばかりが辛い思いをしている、自分ひとりが何でもやっている、こういうことを口先で言う人間のことはどうにも信用ならないばかりか、いざそうした自然災害が起きた場合には、おそらく真っ先に自分だけが逃げ回るのだろうと思います。 言っているだけで自分の手は汚す気はないのですからね。 救えない人間だと言わざるを得ません。 地震の話を例に出したのは、「想定し得る最悪の状況」を示すためです。 上司のことを罵倒するような陰口を、本人は「言っているだけだ」と言っていましたが、これが実際どういうことなのかをわかっていないというのは非常に致命的であるにもかかわらず、それでも自分が出世できると思い込んでいる辺り、非常に残念でなりません。
論理的思考を嫌う人がいますね。 何でもかんでも白黒付けたがる異常者みたいなことを言う人。 確かに、物事は曖昧にしても構わないことだってありますよね。 そこまで白黒ハッキリさせたがる人はあまりに細かい性格かもしれません。 しかし、何でもかんでも曖昧にしてしまうようなことも、度が過ぎれば異常性を高めることになりますね。 偏ってしまえばどんな思考もダメなんですよね。 目的意識があれば目的に対して論理的に計画を立て遂行することができるでしょう。 「何のために何をいつまでにどうするか」とね。
でもですね、計画計画って言いますが、計画は開始から終了までの間に必ず修正を必要とすることが前提にあります。 計画通りに物事が進むならこんな簡単なことはありませんよね。 人がやることであって、機械がプログラム通りにやるわけではないですから、計画通りに物事が進まないのも当たり前ということです。 ところが、どこまで予定外のことを想定できるかによって計画の密度も変わってきますよね。 思考に柔軟性があれば、何が起きてもその都度ベターな判断ができ、行動ができるようになるのですが、目の前の状況に思考を支配されてしまうと、その先の指針が全く定まらなくなります。 もしそんなリーダーがいるとすれば、そこに属すメンバー全員が迷うことになります。
思考はどうやって鍛えればよいのか。 そして、どうやって自分の頭で考えることができるようになるのか。 こういうことは、個人の意識に頼らなければなりません。 いつも誰かが考えて動いてくれるような環境に慣れてしまっている人たちは、いつまで経っても他力本願で自ら動こうなどとも思わなくなってしまうわけですね。 企業組織の中にそうしたぶら下がり社員が割合多ければ多いほど、上の人たちの負担はどんどん膨らんでいく一方です。 その上部下たちがブツクサ文句ばかり言っているようでは、統率力はどんどん目減りしていきますね。 今私が働いている職場でも、まさにこのような現象が起きていて、ベターな判断ができる人間がほんのわずかしかいないのだと感じています。
これまでに慣れた人間たちは、これからのことを考えることさえ放棄してしまうようになるのですね。 まったく、悲しい現実です。 私は、絶対にそのようにはなりません。 また、そのような人間たちと言葉を交わすことの意義もあまりないことも気付かされて来ていますので、やはり私は人を選びます。 むやみやたらに誰とでも仲良く?合わせて話す?そんなことはしません。 結局、1つの目的を果たそうとする時には、それに対してベクトルを同じ方向に向けている人たちと協力することでしか達成できないのです。 文句や愚痴を垂れ流しているような人間たちはずっと言っていればいいのです。 誰かが動いてくれるまで何もしないのですからね。 残念な仕事人生です。
※今回は以上です♬ 物事の本質を見失えば、それ以降、思考は全く別のところで訳の分からない議論を生むことしかできなくなります。 ズレた議論かどうかを見抜きさえすれば、その支点に少し力を加えて倒してしまえばいいのです。 時間的価値を高めるための建設的な議論ができないのであれば、口出しすべきではないですね。 どんな時も。 どんな時も。