◆善の正義と悪の正義の衝突が生む犠牲
この世界に「正しいこと」などそもそも存在しない可能性を感じている。
何が正しくて、何が間違いか、すべてをそのように仕分けたのは人間というだけであって、人間のエゴであるとも言える。
人様のものを盗んではいけない、人様を騙してはいけない、人様に暴力を加えてはいけない、人様の尊い命を奪ってはいけない、決められた時間に遅れてはいけない、決められたルールは守らなければならないなどといったことは人間社会では国の法律や各都道府県市町村の条例などで定められている。
そして、人として・・・社会人として・・・上司として・・・親として・・・など、時としてそれらの過ちを追求される際には常に立場を基準に「〇〇としてあるまじき行動」「〇〇として許されざる失言」などという論調で痛烈に批判することがさも当然であるとされているのもまた人間社会でもある。
政界でも、芸能界でも、民間企業の各分野でも、人として過ちを犯した者は吊し上げられ、晒され、厳しい社会的制裁を加えた後、そうした者を二度とそれらの業界で活動できないように圧力をかけて干されることは当然である、という社会正義が根付いている。
「世の中には善人と悪人の二種類の人間がいる」と考えている人たちは、間違いなく自分が清廉潔白な善人であると信じて疑わない人たち。彼らは、反社会的勢力に属している人たちや罪を犯した人たちに対して、その事実のみを見て悪人だとしているものの、裏を返せば、そこまで偏った見方しかできていない時点で、悪の要素を多分に含んでいると考えられる。
悪人は何を言われても何をされても仕方がない、自業自得である、そう信じている自称善人の彼らは、まさか自分が罪を犯してしまうことなど微塵にも想像していないかもしれないが、誰であれ、善悪両方を宿していて、人として産まれてから生きていく中で出会う人々や変化する環境の中で、時に善行を、時に悪行を働くことがある、そういう波に揺られながら生きている、と考えるのが人間の本質であろうと思う。
人は誰かのために良いことをするし、悪いこともする。簡単に言うとこういうことなのだけれども、良いことにも悪いことにも大小様々に多くの種類があって、重みという意味でも非常に範囲が広い。
過ちを犯した人間に対して、正義心から大勢で石を投げる行為は善行か。どうも近頃の人たちは、感情を抑制することを考えないで衝動的に行動する傾向にあるように映って見える。
とはいえ、そんな私も20代までは似たようなもので、苛立ちや怒りを抑えきれず八つ当たりで暴言を吐いていたことはよくあった。今思えば、そのどれもが、相手から、周りから理解を得るには程遠い逆効果でしかない言動であったとわかる。
善意だろうと悪意だろうと、はたまた過失だろうと、その時々の人間の感情の振れ幅が大きければ大きいほど、あまり望ましい結果に至ることがない。
これは、「正義心」にも同様に言えること。なんでも白黒はっきり分けて、善だ悪だと仕分けして処理できるほど人間は単純ではない。法だって万能ではない。
誰かの正義に同調することも、誰かの正義に対してこちら側の正義を衝突させることも、果たしてそれが本当に自分の意思に因るものなのかはよく考えたほうがいいのかもしれない。
学校でも友人関係でも宗教でも企業組織でも、群れることでそこにはそこの正義やルールが構築されるわけだけれども、この世界で大小様々な争いが絶えないのは、それぞれのコミュニティーにおける正義をその外側のコミュニティーへと持ち込むから争いが起こるのであって、争った結果、ほとんどの場合、融和へ至ることはない。
人類が歴史に刻んできた無数の犠牲は、正義と正義の衝突によって生じ続けてきたものだと言える。本来そのことに正しいも間違いもなく、争うことしかできない人間、競争することが当たり前な人間、そういう認識を改めることができない人間が元より愚かな生命であるわけで、勝ったほうの正義がまかり通ることを結局のところ容認しているのがこの世界。
正しいか間違いかでは測れないのがこの世界。ではどうすれば争いを回避できるのか。
敵の敵は味方のような考え方に近いかもしれないが、敵対する存在がいるのなら、争うことよりも互いの利益となるような共通目的を持つことがその場の衝突回避に繋がるだろうと考えられる。その目的が次なる別の争いへと発展するのではなく、共通目的を果たすために協力することで融和へと導いていく、そういう賢明なやり取りができるか否かにかかっている気がする。
ところが、現在の世界情勢は真逆に進んでいる。やっぱり人類は愚かだな・・・ということなのだろうか。