想像力の欠如はダメなことも良しと錯覚させるものでしかない。
よくこんな言い方をする人いるでしょ。「前はこうやってたもん!」「お前だってやってたじゃん!」みたいな。事あるごとに過去を引き合いに現在における言い訳とか屁理屈に利用する人、いるでしょ。過去なんか関係ないんだよ。「過去がどうだったか」よりも、現状に対して行動指針は常にアップデートされるものじゃないのかね?
古い議論や方法論、旧態依然とした組織の在り方、そういうことに微塵にも疑問に思わない場合は想像力の欠如を存分に疑うべきだと思うんだよね。
特にさ、今このご時世、秒速で変化していて、各分野で対応に追われていたり、お手上げ状態になるほど逼迫していたりするくらい、ひと月もすれば世間は変化に変化を重ねていることに気付かされる。
もういい加減、納得できないことがあっても極力自分の内部で処理するような思考回路を持つようにしないと、批判、非難、誹謗中傷が無意識に日課になってしまっている人は、ある日突然損害賠償責任を背負わされることになる。もうそういう時代。
先日、 #えんとつ街のプペル の映画公開初日に、絵本作家の西野亮廣さんが語っている動画を観たんだけど、彼は最後にこう言っていた。夢を語る者を笑ったり、挑戦する者が二度と立ち上がれなくなるまで叩くようなつまらない世界を終わらせに来ました、と。彼は作品を通してメッセージを届けることを何年も前から考えていた。
ボク自身も、自慢できるほど出来る人間ではない。むしろダメな側に属す人間だと思う。時間にはルーズだし、人間関係は下手だし、思ったことは言うほうだから敬遠されたり嫌われたりする。そういう自分の特性を自覚していながらも、ボク自身は自分のことを嫌いにはなれない。
人には、その人にしかないダメな部分だけではなく、良い部分もある。100%ダメな部分しかない人も、100%良い部分しかない人も、ボクは見たことが無い。それに、完璧であることには何の価値もないとも思っているから、「人の良い部分を見つけましょう」とかいう言葉は好きじゃない。だって、他者の良い部分はそう簡単に見つけられないし、一般的にも人は他者のダメな部分に意識が向かいやすいから。
毎日愚痴しか言わない人、腹を立てるとモノに当たる人、言い合いになると意味の無い暴言しか言わない人、約束を破る人、いろんな人がいる。では、一部にそういうダメなところのある人たちを全て排除したらどうなるかというと、地球上から人類はいなくなるのではないかと思うのだ。
何度も触れる「成功と失敗の本質」については、今までもこれからも考え方はたぶん変わらない。他人の成功体験を自分が真似てみたところで自分も成功するとは限らない。なぜなら、成功する時というのは、これまでの努力だけではなく、いくつかの好条件が重なって成功することが多いから。でも、他人の失敗体験を自分も経験した時、その人の心境を限りなく±0に近いところまで理解することが可能になる。ただ、好き好んで失敗する人はいない。
では、挑戦の本質とは何かを考えてみる。人が何かに挑戦する時、確実に成功することを確信する場合には超戦とは言わないが、失敗や敗北を覚悟の上で取り組んだ結果、うまくいく時と失敗する時とあるだろうけれども、うまくいったとしても次に同じことをやってうまくいくとも限らない不確実な成功であるならば、やっぱり失敗することでしか不確実性の穴埋めはできない。
失敗し続けると心が折れる人もいるだろうけれども、成功したいと思う意志と好奇心、何度も失敗しても耐え得る精神力を宿す人は、たぶん成功するまで失敗を繰り返すと思うんだよね。
何度やってもできないことを懲りずにやろうとする挑戦者を笑う人がいても、成功するまで続ければ数々の失敗もたった1度の成功で自分を笑っていた人間たちの見方を一瞬にしてひっくり返すことが可能になる。
思うんだけど、「できることばかりやっていて楽しい?」。知的好奇心を持つ人間が幸福感を感じる瞬間はいくつか種類があると思うんだけど、これまでやったことのないこと、苦手だと思っていたこと、できないことが、ある日できるようになった時、絶対に嬉しいと思うんだよね。
赤ちゃんの時に初めて二本足で歩けるようになった時、皆さんは嬉しかった?幼児期健忘のせいで覚えてないのが普通だよね。そう、人は初めて歩けるようになった瞬間の喜びを自身ではまったく覚えていない。でも、その様子を見ている両親は、本人の代わりに喜んでいるに違いない。しゃべれるようになった時もそう。
でもさ、まあまあ大きくなってから手術を受けて両腰骨を削って自己骨移植をしたことがあって、術後1カ月間、ベッドに寝た切りだったことがあるんだけど、治るのがわかっていても「歩けない恐怖」を初めて味わってボクは泣いたよ。自分の足でトイレにも行けないんだから。
リハビリが始まるまでは車イスで、掴まり立ちができるようになったら車輪の付いた歩行器にしがみ付きながら必死に歩いてリハビリをして、完治することにようやく自分で歩けるようになったんだけど、歩ける喜びってこういうことかって人生で初めて実感したんだよ。
今は仕事の関係で一日2万歩以上歩くけれども、全然辛くない。人間は、生きていればいろんな痛みを経験するよね。ボクが受けた手術は、生まれつきの傷を成長した段階で修正するというものだったんだけど、普通に産まれていれば経験することのない痛みだった。
手術の直前、自己血輸血のために800mlの血液を採取して(気を失って死にかけた)、筋肉注射と全身麻酔を打って、術後はインスリンやブドウ糖を投与するための点滴針が手の甲と足の甲にそれぞれ刺さっていて、尿のチューブと流動食のためのチューブが鼻から入れられていて、目が覚めた瞬間は人工呼吸器も喉から直接刺さってた。
術後、母親は痛そうな表情をして見せ、ボクがどんな感じかを訊いてもショックを受けるだけだと言う。手鏡を取ってと頼んで自分の顔を見た。本当に化け物みたいに腫れていた。
それから、毎日毎日、どうして自分はこんな思いをしているのだろうかと思い更ける。学校の同級生はみんなそんなことはなくて、なぜか自分だけがそういう痛い思いをしていることに対して、どうしてだろうと思う一方で、これくらいの痛みなら耐えられる身体なんだなと知った。
800mlの自己血を吸い上げられている最中、両足の先からジワジワと何かが迫る感覚がして、それが腰の辺りまで迫って来た瞬間に意識が飛んだ。失血性ショックを起こす一歩出前まで行ったんだと思うんだけど、お花畑が見える瞬間ってこんな感じなんだなっていう体験もした。目を覚ましてすぐ、激しい喉の渇きを潤すために生理食塩水の代わりに500mlのアクエリアス2本を一気にガブ飲みして正気を取り戻した。
自分が、未知の経験をする時というのは、痛みはもちろん、想定外の経験を何度もする。思いの外、ボクはその都度受容することができる耐性を持っていたのかもしれない。あまり驚かない。さすがに、腕や足が切断されていたらショックだろうけれども、そういう苦痛に比べれば大したことはないと思える。
で、そうこうしているうちに、痛みに鈍くなってしまったのだ。身体的痛みにも精神的痛みにも。とんでもない失敗をしてしまった時も、内心「うわー、マジかぁー」とは思いつつも行動は至って冷静だったりする。人間関係が下手なのは痛みに対する認識が鈍いせいもあるのかもしれないけれども、これはもうどうしようもない。
今となっては、自分がどんなことでブチ切れるのかがわからないほどストレスフリーな毎日を送っている。自分のバグっている部分は、痛みの感じ方と感情。心と感情がプラグで繋がっていればもっと敏感に反応するんだろうけれども、なんかね、起きた事実にビク付かないんだよね。クールを装っているわけではなく、反応が鈍いだけ。
で、そういう自分の特性が、変化に対する耐性にも作用しているかもしれないと思うようになってきた。自分と違って繊細な人って大変だろうなぁって思う。そうやって想像するんだ。自分と他人がいろんな部分で違うのは大前提として、どんな人なのかを観察する意味でも可能な限り想像する。
周りが慌てふためいていても、たぶん冷静でいられるし、判断も間違わない気がする。テンパっちゃうと視野が狭くなるっていうけど、その心配もなさそう。
不安を煽ってくる人に対しても、おちょくってくる人に対しても、ムキになる必要が無い。他人が言うことが全て正しいわけでもないからね。それに、正しさだけが全てでもない。本当に正しいかどうかも怪しいのに、お前は間違ってるなんて言われて自分が間違っているのかって思うほど素直でもない。たぶん、性格は悪い(笑)相手が期待している反応はしないからね。
期待を裏切る無反応か、期待を超える派手な反応、どっちか。反応するとすればね。そういう意味でも、鬼滅の刃の我妻善逸が好きだな(笑)怖がるのなら派手に怖がれ、そのほうが面白い。型破りなキャラ、興味深い。反対に、型にハマったお利口さんには興味がない。
初対面で「ちっちゃ」ってボヤいた人がいたなーそう言えば。また何か言ってきたら派手に言ってみるか。なぜそう言ったのかを問い詰めるゲーム。やっぱりボク性格悪いね(笑)
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