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◆魂が生まれる場所、帰る場所「転生樹」

 生命が終わりを迎える時、意識は停止し、魂は肉体を離れ、転生樹のある場所へ向けて長い長い旅が始まる・・・。

 意識とは、魂が肉体に宿ることで機能する。つまり肉体とは、意識を作動させるために必要な装置のようなもので、魂が宿ることでそれを可能にする。

 ハッキリと死後の世界が存在するわけではないが、魂は転生樹へ辿り着くことでまた新たな魂へと生まれ変わるために浄化されたのち、再度次なる生命へ送り込まれる。

 稀に前世の記憶を持つ子供が現れることがあるのは、転生樹における浄化において僅かに残ったまま新しい魂として放出されることがあるからである。

 転生と一言に言っても、人類のような高い知能を持つ生命体へ転生するとは限らない。私たちが知るあらゆる動物や虫、微生物だったりもするわけだが、全ての魂は、生命に宿ると共にそれぞれの生命体の持つ本能により意識を働かせて生きていくこととなる。

 しかしながら、死後、転生樹へ辿り着けるのは極僅かな魂のみとされていて、その多くは旅の過程で消滅する。

 宗教思想において、神は人々に平等に幸福を与える存在であり、平等に宿命を与える存在であるとされていたりするが、神が生命の創造主であるならば、なぜ世の中に悪が蔓延るのかと問えば、神は悪人さえも救う存在でもあるからだ・・・と考えられている。

 つまり、一般的に人々が神に祈りを捧げる際に自身や大切な人たちの幸福を祈る行為というのは、人類の一方的な願いであり、神はそのすべてに満遍なく応えることなどない。なぜなら、物質的に神は存在しないからである。あくまでも人々が想像した範囲内の偶像に過ぎない。だから「偶像崇拝」と呼ばれているのである。

 この世のすべては自然であり、事が起こる時は偶発的に起こるのである。運命も宿命もなく、全てはランダムに、偶発的に起こっているのである。

 今皆さんが自分を人である自分と認識していることも、その発端は誰でも偶発である。両親の両親の両親の両親の、更なる両親の両親の両親の誰かが子を授かる前に死んでいたとしたら、きっと今のあなたは、今のあなたとしてこの世に生まれてくることはなかっただろう。

 しかしそれでも、転生樹から解き放たれた魂は、何かしらの生命に宿っていたに違いないけれども、仮に人に宿っていたとするのならば、今のあなたとは別の人の子としてこの世に誕生したかもしれないし、はたまた全く別の銀河のどこかの惑星に生まれ落ちたかもしれない。

 腕が4本で足が3本の生命体だったり、人間の何倍も知能の高い宙に浮く能力を持つ生命体だったり、私たちが想像することのできない奇妙な生命体として誕生する可能性だってなくはない。

 ということから察するに、この地球という奇跡的な惑星に人間として生まれたことは、数えきれないくらいの偶発的な奇跡が重なって起きたことなんだろうという漠然とした想像はできる。

 人としての貴重な生命を不意にしてはならない。死して転生樹へ帰ることができたとしても、次に宿る生命体が同じく人間とは限らないのだから。

 問題は、転生樹がこの宇宙のどこに聳え立っているのか、だ。探せ、転生樹を。死してなお次なる生命への転生を目指すために。

 魂という生命の果実のなる転生樹は、長い年月をかけて魂を生み出し続け、雨のように宇宙空間に放出している。宇宙空間に存在する銀河の数が2兆個なら、魂の数は無量大数だろう。

 そう考えると、こうして人として生まれ出会えて良かったと思えることにもありがたい気持ちになれるだろう。よくぞ人間として生まれたものだと私は思う。

 人間という生命として生きることになったこと、それ自体が神のような何者かの仕業であるとしても、功罪両方があるのが人生とも言える。悪いことばかりでもない。良いことばかりでもない。すべての偶発的な出来事を体験するのが人としての生き方なのだろう。

 転生樹を探せ。

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