この世は常に「不確実性」に満ちている。
新しいことを始める時、新しい場所へ向かう時、新しい変化を迎えた時、その瞬間から、時間の質が不確実性に満ちる。一歩踏み出すことさえも、不安に感じる。
そんな時、誰もがストレスを感じる。これまでの経験、これまでの常識、これまでの概念、これまで蓄えた知識、それらが一切通用しないと気付かされた時、不安に感じ、精神的な圧力に襲われる。
でも、いつ、どんな時も、人が何を感じ、どう思うかに関係なく、時間はただ流れ続ける。不安に押しつぶされそうになってその場に伏していようとも、とにかく歩き続けて視界に入る景色を変えていても、時間は残酷に流れていく。
独りで、見知らぬ土地をひたすら歩くことを想像しても不安にならないのは、好奇心に助けられている部分が大きい。でも、人は自分が知らないことに対する不安を払拭するために、調べて、理解することができる。
ただ、頼りにした情報が、正しいものか、正しくないものか、その分別が付かないことは多々ある。時には、情報がどういうものであれ、その場その場で感じること、直感、そういう感性が試されることもまた多い。
視界が悪いと不安になる、無音の空間だと不安になる、無臭だと不安になる、触れるものが何もないと不安になる、味がしないと不安になる、人間の五感は、自身の行動においてそれぞれが「期待する感覚」にそぐわないことで、不安を感じたり、ストレスを感じたりする。
では、反対に、常に自分の期待するままに物事が進んだり、期待するままに生きていけたとしたら、それは自分にとって本望なのかと問われれば、きっとそんなことはないだろうと思う。無論、生きることそのものはそれほど容易なものではない。
「期待」の基準は人それぞれだろうと思う。こうすればこうなる、こう言えばこう言われる、そう思う時にはいつも過去の経験を頼りにしているけれども、大抵の場合、期待は裏切られるのだというのがボクの基準。言い換えれば、「不確実性に満ちているのが当たり前」だとボクは思っている。
でも、何事も不確実であることを、ネガティブに捉えることには意味がなくて、それでもなお自分を保つことができることが精神衛生上もっともフリーな状態。
何もしないでいると不安になる。余計なことを考えてしまう。それなら、何かやったほうがいい。音楽を聴くでも、動画を観るでも、本を読むでも、絵を描くでも、何かを組み立てるでも、なんでもいい。今できることは、現状がどんなに不確実性に満ちていようとも、できることをやる、やりたいことをやる、それ以外にはないよね。
そうして、自身の五感を刺激し続けることで、いくらかでも不安は解消されるし、視野も広がる。五感を大切にするために何をするかを考えてみるのもいいだろうね。不確実性に対して不安を感じてしまうのは仕方がないけれども、何もしないでいるのは良くない。
でもまぁ、不確実性に対しては、鈍いほうが一番気が楽かもしれないけどね。例えばだけど、潔癖症の人は、ちょっとしたホコリでさえ嫌うでしょ?臭いに敏感な人はとにかく香水とか洗濯洗剤の香りとかを嫌うでしょ?ただ嫌いなだけならいいけれども、感覚が過敏症レベルだと、落ち着いていられない。できれば無縁のまま生きていきたいね。
ボクは五感全てが一般的に言われるレベルより鈍い。テーブルにスネをぶつけても痛みはその瞬間だけで、すぐに痛くなくなる。サイコパスの特徴をいくつか持ってるんだけど、鈍くていいこともたくさんあるんだよね(笑)荒い言葉に対する感覚も鈍い。だから心が傷付くこともない。これを強いというのかどうかはわからないけれども、耐性でいうと強いのかもしれない。
試されていると気付くのも容易い。だから、ちゃんと期待を裏切る。相手の思う壺になるのは戴けないからね~。