【05/26の日記】知らない方が幸せなのに
・今日も意味も進展もなく日々が終わろうとしている
朝起きて友人と会話をし、少しゲームで遊んだらもう今日が終わってしまった。本を読んだり映画を見たり、ドラマを見たりすればもう少し寝る前に感じいることも少ないだろうにと思うが、いつもそれを思うのは布団に入ってからだ。そうして後悔の思考の流れの中で眠れなくなっていく。
・何がインプットだよバカ
創作活動を始めてからというもの、創作物をクリエイター目線で見るようになっている。レイヤーという存在を知ってから、街行くポスターを(これはこうこうこういうレイヤー構造になっているのだな)と分析することが出来るように、作品をメタ的視点から俯瞰してみようとしてしまっている。
私は読書のことを「インプット」なんていう言い方が、その書物を「モノ」として消費しているような感じがしてあまり好きではない。
好きではないはずなのだが、だからこそ発想の泉を涵養させたいときにどう読書に向き合えばいいのか分からない。読書は義務ではない、決して無為に消費していいものではないと思ってはいるのだが、創作者としては好む好まないにかかわらず書を読んで何かを蓄えることを強いられているのだ。
知識は捨てられない。
私はもう何も考えずに物語を体験していた自分には戻れないのだ。
そう思うと、私は少し悲しい。
・知らない方が幸せなのに
創作者として作品を作るようになってから作品を素直に見ることが出来なくなった。作品を見ているようでいてどこかズレた位置から展開やセリフ回しなんかを俯瞰して見ている自分に困惑してしまう。作品の消費者としては失格だが、創作者としてはその見方をすることが正解なことに、これまで消費者だった自分の部分が抵抗しているのだろうか。
どうして人は知りたくなってしまうのだろうか。
知らない方が幸せでいられることも多いのに。
よく、三元豚のトンカツなんて名前の総菜をスーパーで買っていた。
三元豚なんて言葉の意味は知らなかったが、三冠、三勝みたいな縁起のいいブランド物のような気がしており、お気に入りだった。
ある時、三元豚についてのツイートが流れてきた。
どうやら日本で食べる豚はほとんどが三元豚だと。
ブランドものらしさを出すためにそう名乗っているだけなのだ、と。
私は踊らされていたのだ。
が、それは何も悪いことではない。
私は現に騙されたり、奪われたりしたわけではないのだから。
ただ、トンカツを買って、食べた。
これだけのことなのだ。
これだけのことなのに、私は、それ以降そのトンカツを買っていない。
反旗を翻したわけでも、何か言いたい主張があるわけでもない。
ただ、何か手が伸びなくなってしまったのだ。
私があのときあのツイートを見なければ、私は今日もトンカツに手を伸ばしていただろう。
あそこのトンカツは美味い。
きっと、私はソースにわさびなんかを溶いてしまったりして、笑顔で食べ終えるだろう。
それでも私は愚かにも、この先に何かがあると信じてやまないのだ。
全てが無に帰せばいいのにと思う諦観の奥深く
無知で怠惰ながらも無邪気にはしゃぐ人間への羨望が隠れている。
彼らに悩みが無いなんて勝手に決めつけて。
終
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