求められる灰原哀の失恋の形
【黒鉄の魚影・ネタバレ注意】
ひとことで言うなら、今回の映画は、どうあるべきかと訊かれるとうまく答えられなかったコナンと灰原の関係性に、最適解を示してくれた映画でした。
灰原哀が主役と謳われていたこの映画。わたしは公開をとても楽しみにしていて、同時にとても不安でした。
コナンで一番好きなペアは?と訊かれたら、迷うことなく「コナンと灰原」と答えますが、ふたりを推す気持ちは少し複雑で、「わたしは新蘭前提のコ←哀が好きだ!哀ちゃんには幸せになって欲しいが、その彼女自身が蘭を置いては幸せになれないと考えている⬅️これを推す派閥だ!(観る前日のわたしのツイートより)」このような意見を持っていました。
しかし世間には本気でコナンと灰原の恋仲を望む声もあります。その人たちの中には、蘭を貶す人もいました。これが【新蘭/コ哀論争】としてたびたびネットをざわつかせるなか、このような映画を公開することは、争いを助長させてしまうのではないか。そう考え、ずっと不安に思っていました。今作のベルモットの言葉を借りるなら、コナンと灰原の関係性を追究することこそが「開けてはならない玉手箱」だと思っていたのです。
しかし今作の脚本は非常に巧みでした。人工呼吸というコ哀派にとってはご褒美のような、新蘭派にとってはかなり挑戦的な、言っちゃえばタブーぎりぎりのクライマックスを丁寧に描いたあと、ラストで灰原が、その唇を蘭の唇に重ねることで、新一と蘭という『名探偵コナン』の原点に戻る。
しかもただ戻るだけでなく、灰原が自発的にそのキューピット的なポジションに立つという、なんとも切なくて甘酸っぱい展開。
この一連で、わたしを始め多くの観客は、また灰原哀のことが好きになります。狂おしいほど好きになります。なんといっても、青山先生のあの作画!ずるい、ずるすぎる。あの作画を見るためだけでも、この映画を観る価値があります。
そんなわけで謳われた通り、今作の主人公は灰原哀であったと自信を持って言えます。であったと同時に、これはあくまで主観ですが、「お前らの灰原哀は確かに魅力的だ。わかる、わかるぞ。だって今作なんてその真骨頂みたいなものだもんな。でもやっぱりさ、この作品はどこまでいっても工藤新一と毛利蘭のラブストーリー、小さくなった名探偵が元の姿を取り戻して、好きな女の子の隣に戻ってくるまでの物語なんだよ」と、やんわりではあるけれど確固たるメッセージが、制作班の方から告げられたようにも感じました。
あえて誤解を恐れぬ言い方をするなら、今回の映画は、全力でコ哀に肩入れしながら、全力でコ哀を牽制する物語だったと思います。しかし牽制とはあくまで解釈のひとつで、事実は『全力でコ哀に向き合ってくれた』。こちらの表現がより相応しいと思います。そしてそのあたたかさだけを感じられる作品に仕上がっていたことが、今作の脚本の素晴らしいところだと感じました。
仮にコナンが以前の生活に戻り、蘭と一緒になれたとして、灰原哀はどうなるのか。これは灰原からコナンへの恋心が示唆されてからずっとつきまとってきた問題のように思います。まさか今更『いやいや!コナンの今後なんて、灰原は気にも留めませんよ!』なんていうのは無理があるし、江戸川コナンと工藤新一の分裂は、オタクの妄想の中でならいくらでも可能ですが、本筋にするには趣旨とずれている。ではどうするのが正解なのか。もっと具体的には、どんな風に描けば、全員とは言わなくとも多くの人が、灰原哀の失恋を受け入れられるのか。わたしにはその答えがわかりませんでした。しかしこの作品を観終えたとき、「ああこれだ、これが正解だ」と、そう思ったのです。カギとなるのは蘭でした。原作や今作でもなされていた、蘭から灰原への献身的な描写。灰原は愛に触れ、その姿を亡き姉に重ねるようになり、心を許すようになっていきました。一方でそれが明確に表に出ることも、以前はありませんでした。そして迎えた今作のラスト。まったくの予想外で、攻めていて可愛くて健気な、灰原から蘭への献身の形。『天国へのカウントダウン』で灰原がコナンに「吉田さんを泣かせたら私許さないわよ」と言うシーンがありますが、今後「蘭さんを泣かせたら私許さないわよ」と言っても無理のない関係にふたりを落としこむこと。つまり、嘘偽りのない 蘭→←哀 を描くことが、納得のいくエンディングの礎を築くのだと、わたしはあのシーンを見て思いました。だから今作はコナンと灰原の、いや、コナンと蘭と灰原の三角関係に対する、最適解だったと思うのです。