ゆっくり廻る、ゆっくり歩く
ぼくは、最近眠りから覚めたときに、自分を一瞬思い出せなくなる。自分を、忘れるのだ。
自分を忘れる、とはどういうことか。
ぼくは7年間、夜勤ではたらいていて、起きるのは決まって夜であるはず、それを現在まで繰りかえしてきたはずなのに、目が覚めた瞬間、「ん、、もう朝、、、?」などと、世間は夜なのに、いまは朝である、と錯覚してしまうんだ。
そのあとにぼんやり考えることはいつも異なっていて、「今日は部活?」「あれ?今日はシフト入ってたんだっけ」と前職や、学生時代や、アルバイトのことを気にかけ、それから「もしや遅刻?無断欠勤?」と、決まって不安になり、焦る。
少し間をおいて、ようやく視界にピントがあったころに、部屋を見まわしてみて、窓を見つけ、いま現在が夜であること、自分が夜勤であるということ、部活やアルバイトはずっと過去の話であること、などを少しずつ思い出し、いまのぼくの状況を、理解する。
中途覚醒についても、おなじような感じで、起きた瞬間になぜか朝だと錯覚してうろたえてしまうことは変わらない。
この現象があんまり毎日つづくので、一種の軽い記憶喪失、または健忘症などの前触れなんじゃないかと思って調べたところ、一過性前向性健忘という医学用語が、自分のそれに近いものであること、そしてそれは、多くは服用している薬の副作用である場合が多いことなどがわかった。
今はまだ、5〜10分程度で自分を思い出すことができるけど、このまま服用をつづけていれば、起きてから自分を思い出すまでの間隔は徐々に長くなっていくのかもしれない。
でも、それでもいいような気がする。
自分を思い出すときに、なにかどうしようもない現実を突きつけられるような、苦しさというのは、まったく無い。
あるのは、「いや違う、ぼくは若くない、30年も生きてきたんだった。」という、しかと大地を踏みしめるような、「現在を生きている」という安堵だった。
ぼくは、「生の実感」なんて刹那的で、特別深く深く考えるほどでもない(でもどうしようもなくそれを求めてしまうときもある)事柄だと思っていたけれど、「忘れる、思い出す、」という起床時の一連の脳の所作によって、「生の実感」あるいはそれにかぎりなく近いもの、が、毎日得られているような気がする。
この方法は、薬の副作用の産物であるという以上、あまりひとにはおすすめできない。
けど、ぼくがいま言いたいことはそうじゃない。
ぼくは思う。「忘れる」ことも必要なこと。
だけど同じくらい「思い出す」ことも必要なこと。それから、「忘れる」ことによって、ある日突然、「思い出す」ような事柄は、別の意味を帯びてくること。
人間には脚が二本ある。忘れる、思い出す、忘れる、思い出す。それを交互に繰りかえし、歩を進める。その歩みは、過去を振り切って走っていくひとに比べたら、とてつもなく遅いのかもしれない。だけど遅くたってかまわない。大地は、地球は、ゆっくり、ゆっくり廻っている。だから、同じようにゆっくり、だけどそれを確かに踏みしめながら歩くひとに対して、この世界は、概ね好意的である、ような気がする。地球のゆったりした移ろいに、歩調を合わせているわけだから。いま、そんなことを、信じたい気持ちになっている。