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500年後のぼくたちへ

写真。どれだけ再現技術が進歩しても、写真というメディア自体は、恒久的に残りつづけるだろう。でも、それはぼくにとっては不気味な話なんだ。

ぼくたちは、古ぼけた写真や、白黒のいかにも歴史を感じさせる写真を見れば、それがある程度昔に撮影されたものであることがわかる。あるいは服装や景色から、なんとなく過去であることを推察することができる。

しかし、今撮られている写真は、あまりにも鮮明すぎるし、「ホンモノ」を紙に転写したような形だ。それに加え、画像としてネットワーク上に保存されたものは削除されないかぎり劣化しない。

ぼくは思う。はたして500年後の人類がいまぼくたちが取った写真を見つけたとして、はたしてそこに映っているのが500年前を生きた人間だと思うだろうか?

世界や日本の風景がどのようにこれから変わっていくのか、わからないけど、人物に関しては、現在から500年後の未来までのどの時代を生きた人物なのか、付随する撮影日時などの記録を通してでしか、判別することができないのではないか。

そう考えると、ぼくはなんだか怖くなった。今現在撮っている写真が、未来では、現在か、現在に近いものとして認識されていき、データだけが膨大になりつづける。
まるで、100年後の人類も、200年後の人類も、同じ時代を過ごしてきた友人であるかのように。

もっとも写真は、自分が生きてきたことを自分や、自分に近いひとが『思い出す』『懐かしむ』ために、撮られているものが大半なのであって、『未来に遺す』ために撮っているひとというのは限られているだろう。

だけどぼくは、自分が生きた時間を、ひとつの時代としてとどめておきたい。それは、未来になればなるほど、過去は古く、劣化していく、という秩序を、感じながら生きていきたいからだ。

それでぼくは、なんとか自分の撮った写真を、過去になりゆくもの、にするにはどうすればよいか、考えてみたものの、結局、古さを感じさせるフィルターを使うとか、あとは今世の中で起こっていること、の象徴となりつつある『マスク』を使うとか、ありきたりな方法しか、思いつかなかった。

だからこれはメッセージだ。写真が、もう何百年まえのものなのかわからなくなった、500年後の人たちに、ぼくの挫折を、伝えたい。

ぼくは500年まえの人物だ、一般人だ。あなたたちとは違う、けれども時代を証明するものを持たない。
だから、あなたたちと同じに見えるかもしれない。
ぼくは過去になる方法を模索している。
そして、科学や工業その他諸々の分野の発展につれて、過去になりたい、という人間は、これから増えつづけるであろう、と、予測している。

もしぼくが撮った写真、3枚とも、2020年を生きているひとりの一般人、に関わる写真、この写真の意味するところは、現在がちゃんと過去になるように、試行錯誤を繰り返した結果の、しょうもない挫折の記録だ。
それを、500年先を生きるひとたちがこの文章とともに目にする機会があったら、500年前の時代に、時間に少しだけ想いを馳せてほしい。それでたぶん、ぼくのたましいも、救われる思いだ。

時代感覚が無くなっていく、というのはぼくの思い過ごしかな。
でも、届けばいいな。