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メサイアとHELI-Xとわたし

平素よりお世話になっております。みづさんです。

明けましておめでとうございます。
新年も明けて2週間以上が経ちますが、世間の話題は相も変わらず気が滅入るものばかりで、そういうものから目をそらすためにnoteを書こうと思います。

もしかしたらタイトルに記載された作品名を見てこのnoteに興味を持ってくださった方もいるかもしれませんが、今回のnoteはそんなに明るい話ばかりではないです。
これは記録でもあり懺悔録でもあります。
特に、タイトルの作品についてちょっとでも嫌な記憶を思い出したくない方は、ブラウザバック願います。



メサイア・プロジェクトという作品群について、わたしは俳優垢を作るまでは見たことはおろかタイトルを聞いたこともありませんでした。初めて作品自体を意識したのは、メサイアシリーズ完結編となった黎明乃刻公開直前だか初日だかのことだったと思います。とある脚本家のブログにとある記事が投稿された日のことです。
その記事の内容(とか投稿のタイミングとか投降後の対応とか)はいろんな場所で物議を醸しました。わたしのタイムラインも少なからずざわつきました。それがメサイアとわたしの出会いでした。
良い出会いだったかと言われれば絶対にそんなことはない出会い方ですが、とにもかくにも、メサイアという存在がわたしの脳みそに飛び込んできたのはその日です。

公演が始まった後はもちろん、公演が千秋楽を迎えた後もメサイアの話題はタイムラインでしょっちゅう見かけました。前述のブログ記事によってやや荒れ模様だったインターネットの海を差し置いて、タイムラインには作品を堪能した人たちの感想やレポなんかで溢れかえっていました。その流れの中で作品の過去シリーズには推しのおおたもとひろさんも出演されていたことを知ったり、CLIEのウェブストアで行われたセールで過去作の円盤が蔵出しされたりしたことも覚えています。
そうは言ってもおおたさんが出演していたシリーズはもう何年も前に完結している上、過去・現行通して作品の総数も多く、(もっと言ってしまえば作品に良い第一印象を抱かなかったため、)メサイアシリーズは「気にはなるけど手が出しづらい作品群」という印象のまま、だらだらと時間だけが過ぎていきました。

その印象が大きく変わったきっかけは、去年5月に行われる予定だったメサイア刻シリーズ6作品のネット上映会です。
コロナ禍にあって、様々な演目・プラットフォームで行われていた過去作配信の波が、メサイアシリーズにもやってきたのだと、タイムラインはわっと盛り上がっていました。メサイアのファンの方はもちろんのこと、わたし含めた作品未履修勢もわらわらとニコ生のタイムシフト予約をしたり、リアルタイムで視聴できるように予定を空けたりしていました。

しかし、いよいよ1作品目の配信が三日後に迫ったぞというタイミングで突然、上映会は中止になりました。
中止を知らせるページには「諸事情により全番組中止」としか書いておらず、結局、理由が明かされることも、中止が撤回されることもありませんでした。
お知らせが出てからは、ファンのみに留まらず、公演関係者の方々の間にも動揺が広がっていたように思います。明確に怒りを感じさせるツイートをしている方や、中止になったことを謝罪している方、インスタ配信で自分の気持ちを自身や作品のファンに向けて発信している方もいました。

そんな中わたしはと言えば、ただただ悔しくて、腹立たしい気持ちでいっぱいだったことを覚えています。
これは気になっていた作品を見れなくて悔しいという意味ではなく、どちらかと言うと「見たいものを誰かの『見せまい』という意図で見れないこと」が悔しかったんだと思います。
「映画館で気になってた映画を見ようと思ったら、その日は満席で見れなかった」のではなく、
「映画館で気になってた映画を見ようと思ったら、目の前に座っていた二人組がずっと大声で喋ってた上に立ち上がったり手をぶん回したりしてた」みたいな、後者の怒りや悔しさに近いものを感じました。
映画館であればスタッフに言いつけるなり当人たちをひっぱたくなりなんなりできたのでしょうが、なんせ見る場所は映画館ではなく自宅で、わたしの視聴を邪魔する人間が誰なのかすら分からない状況なので、ただただ気持ちだけが募るばかりでした。

中止に関しては、のっぴきならない事情というのはあったのだと思います。いろんな分野からたくさんの人たちが関わっていた作品です。参加していた人の分だけたくさんの気持ちや思惑があったのだと思います。それでも、だからと言って簡単に飲み込むことはできなかったという話です。

さて、悔しい気持ちはそのうちぐるりと回って、衝動的な購買意欲に変わりました。
数日後あたりからわたしは、プロジェクト内で産み出された作品を片っ端から搔き集めました。
2021年1月現在、メサイアシリーズの新品の円盤を定価(もしくは定価未満の金額)で手に入れることは非常に難しい状況となっています。新品は軒並み品切れ、中古で手に入れようにもどこもかしこもプレミア価格となっており、今から全種類の円盤を揃えようと思うと根気も財布も虫の息になることが確実な情勢です。去年の6月ごろはまだ在庫が残っている作品もありましたが、過去シリーズだとその時点で既に売り切れ、もしくはプレミア状態になっている円盤がいくつもありました。
そんな状態にある円盤のうち、わたしは定価で販売されているものをシリーズも新旧も問わずとにかく買い漁りました。円盤のみならず原作小説・コミカライズ・オフィシャルガイドブックも勢いで購入しました。その様子を見ていたお友だち(LOVE)が、店舗在庫があった商品をわざわざ代理購入してくれたこともありました。(だいすき)

そうして勢いのままに11枚の円盤と4冊の本を手元にかき集めて、手元にあることを実感して、わたしはようやく気持ちが落ち着きました。少なくとも手元にある作品ならいつでも、自分のすきな時に見ることができるという安心感がすごかったです。
ただ、問題は、集めたことで満足しきってしまい肝心の作品を見ることの進捗があまりにも遅いことです。ほかにもやりたいことが多すぎて手を付けられないというのもあるんですが、ひとまず章シリーズと極夜と暁乃刻を見たあたりで燃え尽きています。本末転倒とはまさにこのことです。

以上の一件を通じて、わたしは円盤が出ることのありがたさをしみじみ噛み締めるとともに、「観たいものは観れるうちに観るべきだ」ということを強く強く学びました。オタク界隈ではよく「推しは推せる時に推せ」と言われますが、あれに似たものを感じます。
推し事にはハマるタイミングや楽しむためのコンディションなど必要な条件がたくさんあって、「なんであの時観ようとしなかったんだろう」「なんでもっと前にすきにならなかったんだろう」と思うこともしょっちゅうです。でもせめて、未来の自分にはそんなことを思わせないよう、できるだけ視野と活動範囲を広げて、アンテナは高く高く伸ばしておこうと改めて思い直すなどしました。

さて、時間は飛びますが、2020年12月に「HELI-X」という舞台作品の公演が行われました。
この作品の『脚本:毛利亘宏 脚色・演出:西森英行』という組み合わせは、かつてメサイア・プロジェクトにおいていくつもの作品を世に送り出してきたペアでした。2020年上半期をメサイアに持っていかれた自分は、公演決定の知らせを見て飛び上がるほど喜んだのを覚えています。面白くないはずがない、という謎の信頼感まで抱いていました。
しかも主演の二人のうち一人が、わたしがメサイアで感情をしっちゃかめっちゃかにされたキャラクターを演じている玉城裕規さんだと聞いて、もうその時点で情緒がしっちゃかめっちゃかになりました。世は玉ちゃんさんにつらい感情を背負わそうとすな(いつもありがとうございます)

ありがたいことにチケットも無事確保でき、1公演ではありますが大阪公演を現地で観劇することができました。
2時間15分ぶっ続け休憩なしの公演時間で、わたしはものの見事にHELI-Xの世界観に飲み込まれました。
この十数年ほど中二病を煮詰めに煮詰めた趣味と性癖と共に生き続けているわたしにとって、「異能力バトル」「能力は個人のトラウマに関係する」「大切な人の死による闇堕ち」「裏切りの応酬」というすき要素ぶちこみストーリーは言わずもがな、黒白赤あたりの色を基調にした布面積の多い衣装、シルエットだけで判別ができるキャラビジュアルと、もうどこを切り取っても垂涎ものでした。
バディ間の感情の描き方も拍手喝采を送るに相応しいものだったと思います。劇場からの帰り際に後ろの方を歩いていた女性が「毛利さん(ああいう脚本書くの)すきやなぁ」と話していたのを聞いて心の中でこっそりわかるボタンを連打していました。主人公二人だけではなく、彼らを攻撃する者、守る者、それぞれの人々の間で交わされる感情や言葉の一つ一つが重さを持っていて、関係性フェチのわたしはもうひたすらに圧倒されていました。毛利さんの描くバディは、最終的に自分たちの想いを隠すのをやめて、全力でぶつけ合おうとするところがとてもすきです。
俳優さんたちの演技も素晴らしかったです。個人的には玉ちゃんさんと星元裕月くん、あと女性陣の演技がたまんなかったんですけど、どの役者さんも鬼気迫った、かつ繊細な演技をされるのでそれだけでも観に行ったかいがありました。
あと、グッズで小説集があったのも活字すきオタクにはたまんなかったです。帰りの夜行バスを待つ間に寒さも忘れて読みふけってました。カンザキ大佐がだいすきなわたしの聖書になりました。
※以上は個人の感想なので異論は認めますがわたしには言わないでください。

そんな感じでうっかり早口オタクになってしまう程度に心臓をばちぼこに殴りまくられたわたしは、買う予定のなかった大千秋楽公演の配信も流れで買っていました。現地で観た時とは違う角度から舞台を観ながら、キャラクターたちの一挙手一投足の意図を考えながら見る配信は、初見の時とはまた異なる魅力がありました。

わたしは大千秋楽が終わって以降、現在進行形でHELI-Xを引きずり続け、今でもたまに思い出したようにHELI-Xを吸いたい、円盤はまだかと呻いております。その割にはミーティングイベントのオフィシャル先行の申し込みを忘れていたので、馬鹿だなぁ、こいつのパッションは本当に信頼できねぇなぁと思います。


という、そんな感じで、気がつけば2020年は割と長い期間毛利作品に心をかき乱されていました。
一応メサイア・プロジェクトは毛利さん以外の脚本の作品もあったのでまるまる毛利作品としてくくるわけにはいかないのですが、それでも夏には死神遣いの事件帖でお世話になったことを考えると、年間通してと言っても過言ではない(ある)気もします。

わたしは前回の記事で、「コロナ禍でも悪いことばっかりだったわけではない」という旨のことを書き殴りましたが、その悪いことばかりではなかったうちの一つがメサイア、そしてHELI-Xという作品との出会いだったと思います。
もちろん、あの時何事もなくネット上映会が開催され、みんなと楽しく6夜連続でメサイアを見れたのであれば、それが一番よいことだったと思います。今でもあの時のことを明瞭に思い出そうとすると、腑に落ちないもやもやとした気分になります。でもあの時強く感じた「見れなくて悔しい」「見たいものは見れるときに見なければ」という気持ちは、たぶん何事もなく上映会を見れていたら感じなかった感情ではあると思います。少なくとも、勢いで11枚新品の円盤を買うことはなかったと思います。


別にわたしはこのnoteを通して読んだ人に「何が何でも現地に観に行け」とか「コロナ禍がなんぼのもんじゃい」とか言いたいわけではないです。でも、ミュージカル刀剣乱舞「つはものどもがゆめのあと」で三日月宗近が言っていた言葉を引用するならば、「想いを残すな」とは思います。

自分の気持ちに折り合いをつけるのって本当にめちゃくちゃ難しいんだなというのを2020年を通して感じました。見たくても見れないとか、行きたくても行けないに山ほどぶつかりました。でも、折り合いがつかないからこそ、自分の想いを無視したり、ぞんざいにしてはいけないのだとも思いました。本当に難しいししんどいことだけれども、やりたいことや応援したいもののために自分は何がしたいのか、どうあるべきかは、諦めずに考えるべきなのかもしれないと思いました。

ただの記録と懺悔で終わるだけだったはずが、いつの間にか説教臭い文章になってしまってすみません。
わたしのメサイアに対する感情のルーツは決してきれいなものではありません。ドラマチックでもなんでもないです。
ただ、メサイアという作品に触れるまでの道のりも、その先で出会ったHELI-Xを通して得た感情も、わたしのちゃらんぽらんな人生の中で得た宝物の一つです。

きれいなものじゃないことへの懺悔と、出会いを提供してくれたタイムラインの人たちへの気持ちを一度まとめて書いておきたかったので、この度こんな感じのnoteを書きました。最終的に着地点が迷子になっていますが、わたしのnoteあるあるなのでもう半分諦めています。

そんな感じの、相変わらずのメンヘラポエム文にお付き合いいただきありがとうございました。最近Twitterのプロフィール欄にお題箱を設置しましたので、何かあればそちらまでご連絡願います。


明日は壽 乱舞音曲祭の村正出陣初日ですね。
本当は現地で観る予定だったのですが、時勢が時勢なので有休を一日消化して万全の態勢で配信に臨みたいと思います。

今回もお付き合いいただきありがとうございました。
明日はみんなで村正の初日を見守りましょうね。

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