左利きの探偵
日が暮れた。テレビからは、大リーグで活躍する若者や、天才棋士と呼ばれる若者の話が聞こえる。また悪しき伝統が若者たちを苦しめているとも言っている。
この国の将来を若者に託した私は少し早いが事務所を閉めて酒を飲むことにした。決して酒を飲みたいがために託したわけではない。グラスに氷を入れ、戸棚からブランデーの瓶を出した。チャイムの音がした。中に入るよう声をかけた。瓶を戸棚に戻しグラスに麦茶を注いだ。
ランドセルが似合わなくなったほどの少年だった。仕事にはならないようだ。話だけでも聞こうと、さきほどのグラスを差し出した。私はいつも使っている汚いカップに随分と前に沸かし、冷たくなったコーヒーをおかわりした。
「ここが山本探偵事務所ですか?」
「そうだ」
「実は友だちが殺されそうなんです」
友だちが殺されそうだから、古びたビルの二階にある探偵事務所に行こう。私はそうは思わない。
「その話が本当ならば警察に行くべきだろう」
「相手にしてもらえなくて。警察は事件が起きないと働いてくれないんですよ」
今、この少年の話を聞いてやろうと思った。
「ところで君の名前は?」
「あっ、すいません。中央小の佐藤といいます。」
「なぜここに?」
「通学路でいつも見かけていたので、それにこども110番のステッカーもあったので…」
前任者がここを借りた頃はこの商店街も栄えていたそうだ。今もそのなごりで通学路になっている。車も通らないから安全だ。あのステッカーもあいつが貼り付けたんだろう。
彼の話をまとめるとこうだ。友人と一緒に塾へと向かっていた。しかし、今日は大通りではなく裏路地を通った。すると近くの家屋から女性のうめき声が聴こえてきた。勇気か蛮勇か、塾をサボりたかったのか、2人の少年たちは家屋の方へ向かった。塀を乗り越え、窓をのぞいた。キッチンに血まみれのお婆さんが倒れていた。窓の隣に勝手口を見つけると、カギが開いていた。彼の友人は家に入っていったそうだ。彼は恐怖で家に入るのを躊躇した。物音がした気がして、友人に声をかけた。しかし、友人は奥へと入っていってしまっていた。もう一度、声をかけようとした。しかし、となりに大男がいて、少年に包丁を振り下ろそうとしていた。とっさに回避し命からがら逃げ出してきたと語ってくれた。
「それで君は、すごい能力を使って撃退してきたんじゃないのか?」
「いえ、逃げるので精一杯でした。」
小説の主人公になれる少年ではないようだ。
私も勇気を振り絞り、姫を救いに行こうと思う。距離もここから離れていない。ついでに近くのスーパーで特売の弁当を買おう。独り身の男の夜は暇で仕方がないのだ。本当なら大事件だ。嘘なら説教だ。
「案内してくれ。」
失望させるかもしれないが、そういう私もすごい能力は持ち合わせていない。持っているものといえばタバコとライターと真っ黒な肺と肥えた肝臓だ。全部持って事務所を出て彼を助手席に乗せ、車を走らせた。
「あそこです。」
私は車を停めた。彼が指をさす所は昔ながらの住宅だ。屋根は瓦葺きで家の入口には立派な木が植えられており、奥には小さいながらも庭があるようだ。インターホンは門の前にあるのではなく、引き戸の玄関ドアの横にある。ここから路地を通り反対側に回ると勝手口やキッチンといった水回りがあるんだろう。車を止めて周りを見渡した。
このあたりは時代の流れに沿うように、古びた家は隣の家と一緒に潰され、高層マンションへと代わりつつある。庭や土地の広さで競っていた人たちがいなくなり、住処の高さで競う人たちが住むようになった。近くにはゴミ捨て場があった。もうすぐ夜だというのにゴミは回収されていない。街の変化に政治は追いついていないらしい。
ゴミ袋の山の中に、仲間はずれのゴミ袋があった。見ただけでわかる。きれいな家に住む人たちはゴミを見られたくないらしく、一旦、ゴミを別の袋に入れてから指定のゴミ袋に入れる。しかし、そのゴミ袋は違った。私はゴミ袋を開けて中身を覗いた。コンビニ弁当とカップ麺のゴミだらけだ。ゴミ袋の真ん中、外から見えないところに黒いビニール袋があった。黒いビニール袋の中に封筒らしきものが見える。黒いビニール袋を開けてみるとテッシュとタオルが包まれていた。外から見えた封筒は最寄りの百貨店の特別招待セールだった。女性が住んでいるのは本当らしい。封筒には氏名と住所が書いてある。表札と同じ苗字だ。あの家だ。封筒を元に戻した。私の手にはベッタリ血が付いていた。嫌な予感がした。黒いビニール袋の底は赤黒い血でベッタリと染まっていた。手についた血を拭き取り、隣にいる少年を見た。顔は青白かった。
今にも倒れそうな少年を車に連れて行き後部座席に寝かせた。私は電話をかけた。
「俺を友だちか何かと勘違いしてないか。」
電話口の彼はそう言った。
「急ぎだ。そのまま〇〇町に俺の車が停まっている。人を呼んでくれ。住居不法侵入の子どもを捕まえた。」
「いい加減にしろよ、クソガキ。」
このクソガキというのは誰のことだろうか。
「いつもすまないね」
電話口の向こうから舌打ちが聞こえた。私は電話を切り、襟を正して、問題の家のインターホンを押した。
「はい。」
落ち着いた低音の男の声だ。
「少年を補導したところ、お宅へ不法に侵入したと言うので、お話をお聞きしたいのですが」
「すこし、待ってて下さい。」
ドアから出てきたのは黒いジーンズに黒いタートルネックを着たデカい男だった。生地は良さそうだが、手入れが間に合ってないように見える。
声をかけようとした瞬間、男の口が開いた。
「ありがとうございます。彼は私の甥でね。たっぷり叱っておきます。彼は今どこに?」
「今は事務所にいます。彼は友人と一緒に侵入し、友人は家の奥に入って行ったと言うのですが、ご存知では?」
「さぁ知りませんね…もし、よろしければ中でお茶でも…」
私はお言葉に甘えることにした。
玄関に入った。靴は彼の1足だけ。すぐそばに2階への階段がある。長くはない廊下の向こうにキッチンが見える。キッチンに通された。
「どうぞ。」
用意された椅子に座った。キッチンの床にはカーペットのようなものは全く敷かれていなかった。彼はケトルに水を入れ台に置いた。戸棚を開け、カップにドリップコーヒーを仕掛けテーブルの上に置いた。
「タバコはお吸いになりますか?」
「いただきます。最近は吸えないことが多く困ってます。」
私は少し気分が良くなった。もしかしたら真っ黒な彼の中は真っ白なのかもしれない。彼は私の後ろの戸棚から陶器の灰皿を取り出した。そして、大きな音を立てて戸棚を閉めた。だが、それは私の間違いだった。その大きな音は戸棚を閉めた音ではなく私の頭を灰皿で殴打したものだった。
どのくらいたっただろうか。私は床で寝ていたようだ。幸運にも私は目を覚ますことができた。後頭部がズキズキと痛む。どうやらここは風呂場だ。壁にもたれかかりながら、なんとか立ち上がることができた。薄いドアの向こう、脱衣室に奴が透けてみえる。浴槽を見た。赤黒いカーペットの下に人だったものがある。子どもではなく老婆のようだ。彼の友人はどこにいるんだろうか、考えるのは今ではない。ジャケットの中のタバコとライターを握りしめた。ドアが開いた。奴は包丁を握っている。
「風呂も夕飯も頼んだ覚えはないんだが」
「ガキはどこだ」
「同じ質問を返そう。ガキはどこだ。」
「まあいい。」
「待て、最後にタバコを吸わせてくれ。思い出すかもしれん」
奴は構わず向かってきた。左手で火のついたタバコを投げた。奴は包丁を握った右手でそれを払った。私はライターを握りしめた右手を奴の顔に思いっきり近づけて火を付けた。オマケで付いてくる安物のライターが、大事な時に言うことを聞くだろうか。もちろん、そんなことはない。だが、奴はそう思わなかったらしくひるんでくれた。カラになった私の左拳が奴の顎にクリーンヒットした。奴は倒れた。
まだふらつく身体に喝を入れ、デカい男の横を通り風呂場を出た。私はキッチンをフラつきながら進んだ。後ろから同じように進む奴が来た。奴の方が少し早い。目の前に勝手口が見えた。インターホンが鳴っている。向きをかえ私は廊下を進み玄関へと向かった。倒れこみながら引き戸を開けた。デカい男が包丁を振り上げている。玄関のドアを開き私はそのまま倒れこんだ。玄関の外からもっとデカい男入ってきて、そのデカい顔よりデカい拳が奴の顔に飛んで行ったのが見えた。
気付いたら警察の堅いソファの上だった。今度は打ち所が悪かったらしく、長い時間気を失っていたようだ。目の前には恐ろしくデカい男がいた。何も言わずに舌打ちをして出て行った。
「いつもすまないね」
ドアの向こうから舌打ちが聞こえた。
事情聴取を受けた。相手は舌打ちしかできない上司と違い、心配なほどおしゃべりな刑事だった。彼女が言うには、奴は孤独な老人を狙う強盗だそうだ。何件も事件を重ねたが、近所付き合いの少ない人間を狙っていたため、発見が遅く、警察は足取りを追えていなかったようだ。足がつきやすい通帳などには手をつけず、居住者を殺した後、家財道具をネットで売却してカネにした。そのカネを自分がいた孤児院に寄付をしていたらしい。育ててくれた職員に感謝された時、生きている意味を感じたらしい。親に捨てられ孤独の中で育った。仕事はうまくいかず、こうするしか思いつかなかった。彼はそう言ったらしい。
あの少年と消えた友人はどうなったのだろうか。結末だけ先に言うと友人の存在は嘘だった。おしゃべりな刑事は暗い顔で話してくれた。あの少年の両親は、この辺りではソコソコ有名な会社の社長らしい。このソコソコというのが良くなかった。見栄という虚像と現実という実像との違いを彼は押し付けられたのだ。時には、彼の身体にアザが残るほど押し付けられていたそうだ。彼も孤独だったのだ。孤独な彼は、彼の中に、両親が求める理想像を友人として作り上げた。
私の事務所に来た理由は、事務所の前任者が理由だ。コケて怪我をしたが泣かなかった。前任者はそれを笑えるほどオーバーに褒めたそうだ。彼はそういうのができる男だった。少年は彼に救われたのだ。事務所を開けて、その時と違う人間が出てきた時に、どう思ったか聞きたかった。
「両親が迎えに来られて、今度いっしょにお伺いします。って言ってましたよ。あの両親、反省していたみたいですけど、ちゃんと見てて下さいね。」
私も少年を少し救えたのかもしれない。
犯人には孤児院の職員がいた。
少年には両親がいた。
殺された老人にも家族がいたはずだ。
元は孤独ではなかったはずだ。なんとかできたはずだ。
考えても仕方がない。孤独な私は事務所に帰り、酒を飲もう。やっと飲める。私は孤独ではない。酒とタバコがある。
ロビーに行くとデカい男がいた。
そういえば奴も独り者だった。
「世話になったな。奢らせろよ。」
「俺を友だちか何かと勘違いしてないか。」
「いつもすまないね」
舌打ちはなかった。
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