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「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」を観た。


〜エンタ★ニカ学習帳について〜
こちらは、作品のレビューはもちろん書きますが、
僕が表現物に触れた時、「これは使えそう」と思ったことなども
書き記している、いわばネタ帳のようなものです。
よって、ネタバレも多分に含みます。ご了承ください。

【1時間目】
ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ




①懸念していた歌パートについて

鑑賞前に知人や世間から上がっていた声としては、「前作同様、重厚な雰囲気が徹底されているにもかかわらず、そこへ歌唱パートが必要か」という点だ。

確かに僕も「安っぽくならないだろうか」と懸念していた。だが、全くの杞憂だったようだ。
ハーレイ・クイーン役(レディ・ガガ)はもちろん、ジョーカー役(ホアキン・フェニックス)には歌唱力があった。またスクリーン内で遺憾なく発揮されるステージングに思わず見惚れてしまう程、そのパートは作品の血肉となっていた。

その中でも今回僕が特筆したいのは、歌唱パートに入る前の構成および、演出についてだ。
歌と物語を融合させエンターテイメントとして確立した最も有名な例といえば、ディズニー映画だ。あの作品群はまさに魔法がかかったようにシームレスに歌が作品へ溶け込み、見事な相乗効果を発揮している。
だが、あれは子供も大人も楽しめるようなエンターテイメントだからこそ、魔法がかかるのであって、JOKERのように、社会構造をふんだんに含ませた重厚さとマッチするかはわからない。

話は変わるが、作品(この場合は映画とする)の中でBGMが流れる時は大体、主人公やその周辺キャラクター達の経過を端的に表すために使う。つまり上映時間という限られた尺の中で物語の時空を操れるギミックとして作用する。

だが、JOKERは違った。
物語の時空を歪めずにシーンが展開されていた。

例えば、歌唱パートに入る前後、ジョーカーやハーレイは目を閉じている。この演出は観客に対し「このキャラクターは今、現実逃避をしています」という明確な提示であり、そういった工夫が加わるだけで、歌唱パートへの違和感はグッと減る。
いくら社会派で重厚といえど、JOKERは大衆が期待するエンターテイメント作品の一つだ。だからこそ、こういった親切さが作品の質を担保していくのかもしれない。

また、彼らはどちらもフィルムの中で狂気的に写っていたため、「ここでジョーカーやハーレイが歌ってもおかしくないだろう」という固定観念を植え付ける力があった。さらに投げかけた問いに対しての答えを望んでいるであろうシーンで、あえて歌わせることで「こいつは何を考えているんだ」という謎を含んだ魅力がキャラクターを立たせ、相乗効果を生み出していた。

以上の観点により、歌唱パートへの挿入はむしろ作品の魅力を増幅させていたと思う。




②ホアキン・フェニックスによる絶妙な出力調整

本作はTVショーでマレーを射殺後、収監されたジョーカーもとい、アーサー・フレックが大衆に対してどう影響を与えどう裁かれていくのかを追っていく物語である。

収監後、裁判にかけられることになったジョーカーは「5件(あるいは6件)の殺人に対する責任能力の有無」を裁判で問われていくことになる。
凶悪な殺人犯であり大衆を扇動する怪物として認知する検察側に対し、弁護側は彼を幼少期からの虐待や、劣悪な周辺環境によって攻撃的な人格を作り出さざるを得ない「アーサー・フレック」として認知し、アーサーがアーサーとしてあの惨劇を行なったわけではないと主張する。

余談だが、本作はコミックスのように収監施設が突然、爆破されて、ハーレイ・クイーンと共に脱獄し、まるでハネムーンに興じるかのように犯罪を各地で繰り広げて鬱憤を発散する作品ではない。僕はそこに好感を持っている。

繰り返すが、この作品は「ジョーカーなのか」それとも「アーサーなのか」を問われる物語だ。

映像をはじめ様々な物語の中でジキルとハイドのように相反する人格を持つキャラクターが出てくるのは珍しくなく、そのキャラ性だけではもう何の魅力もないといっていいだろう。よって、そのキャラクターの真価を打ち出せるのは俳優による演技だ。

前作に続き、本作もジョーカーを演じたホアキン・フェニックスによる演技はやはり凄まじかった。
相反する人格を持つキャラクターを創造するときネックとなるのはやはりどのタイミングで切り替わるかだ。
例えば幼少期にトラウマを抱えていて、それが起因となり、人格が分かれてしまった場合はスイッチの切り替わりの演出は容易い。だがキャラ造形においてあんまりコントラストをはっきりさせると、少し安っぽく見えてしまう場合もある。

だが、その点において本作のジョーカーは特に明確なスイッチが見当たらなかった。
最初は前髪を垂らしている時はアーサーで、前髪を上げているときはジョーカーだろうか、と思っていたが、ゲイリーの証言を聞く彼はジョーカーメイクをしていても、かつての同僚との意見の相違を憂うアーサーであった。
その他にも明確なスイッチングが特にないまま、まるで二つの人格が溶け合っているようにジョーカーとアーサーは入れ替わっていく。
そのため鑑賞者としては「今はジョーカーなのか? アーサーなのか?」と気になってしまい、つい、スクリーンから目が離せなくなってしまう。そういった求心力が間違いなくホアキン・フェニックスにはあった。

本作ではホアキン・フェニックスがジョーカーあるいはアーサー・フレックとしてスクリーンの中で演じ、生きてきたからこそ、フィルムに滲み出たキャラクターの練度を肌で体感できた。
個人的に好きだったシーンとしてはタバコを吸いながらイナバウワーのように上体を反らす、ジョーカーバウワーが渋くて、美しかった。




③人間は多面体であり、傲慢である

今この記事を読んでいるあなたも、僕も含めてみんな、人間は多面体であると思っている。だが、兎角、人間は日々絶えず目に飛び込んでくる情報を処理し続けなくてはならない。そのため、他人の人格に対しては一面だけを望んでしまうことが多い。

つまり、人は見たいものだけを見る

そういった人間の傲慢さが本作のテーマのように感じた。

そういった観点で本作を追っていくと、見聞きする個人に対し一面性を望む大衆の総意を凝縮させたキャラクターがハーレイ・クイーンなのかもしれない。

彼女は犯罪者用の精神病棟のような場所でアーサーと出会う。だが、それはすでに仕組まれていたことが後に発覚し、つまり彼女は以前からジョーカーという偶像を崇拝していたことになる。
彼女の偶像崇拝のきっかけは作中の中にあるとされるドラマ(前作のJOKERの内容をまとめたもの)であり、彼女はそれを5回ほど繰り返し鑑賞して、すっかり虜となる。俗物的に表すとするならば、ガチ恋ファンといったところだろうか。

偶像の知名度があればあるほどガチ恋ファンの望みが叶わないのが世の常だが、ハーレイまたはリーの好意にアーサーはコロっといかれてしまい、二人は恋に落ちてしまう。このロマンス自体が作品の根幹であり、あるいはミスリードなのかもしれない。

そう僕が思ったのは、彼女が看守を抱き込んでアーサーの独房に忍び込んできたシーンを見た時だ。

彼女は以前からアーサーにキスを許していた。だが、下を脱いで体を委ねようとする時、彼女は自前のメイク道具を持ち込んで時間がないにもかかわらず、わざとジョーカーメイクを施した
その行動を目にした時、僕は「私が全てを委ねたいのは、アーサーではなく、ジョーカーよ」と彼女が言っているような気がした。

こうした偏執的な違和感は作中にいくつも出てくる。
かつての同僚であり、刺殺現場で唯一生かされたゲイリーとの対話もそうだ。
ゲイリーは過去のショックにより、アーサーとジョーカーを別物として捉えるようになってしまう。だが、おそらく彼は自らの精神構造を「自分はアーサーであり、ジョーカーだ」と捉えている。
区別して捉えるゲイリー。混成していると主張するアーサー。そういったふたりの食い違いが彼の苦悩を不必要に疲弊させていったのだろう。

②では彼がジョーカーなのか、アーサーなのかわからなくなると書いたが、アーサー・フレックという人間を理解するには、そもそも区別すること自体が間違いなのかもしれない。
彼の中には「虐げてきた奴らを全員殺したい」という野望があるのと同じく「優しくしてくれた人を愛したい」という思いやりも存在していた。
僕にはスクリーンの中から彼が「その二面性、あるいはそれ以外の面をひっくるめて自分なんだ」と主張しているように見えた。叫びは間違いなく、悲痛に思えた。

とはいえ、彼は人間が持ち合わせておくべき倫理観を大きく逸脱してしまった存在だ。またテレビの中でしか彼を垣間見れない大衆にとって心の多面性を理解するのは非常に困難だろう。そしてそういった状況下に置かれた大衆の視線を凝縮させたのが、ハーレイ・クイーンというキャラクターなのだろう。

恋は盲目なんて言葉はよく聞くが、本作の二人の関係性はまさにそうだ。

アーサーは彼女に自分の全てをわかって欲しかった。
しかし、ハーレイは彼に偶像としてのジョーカーを望んでいた。
人間は他人を侮る。そしてどうしようもなく傲慢な生き物だ。

作中ではよく「エンターテイメント」という言葉が多用されていた。つまりジョーカーは大衆やハーレイにとってエンターテイメントに過ぎなく、彼個人としての人格は望まれていないかった。だからこそ、ラストシーンで彼は、狂信者でありアンチファンでもある囚人に獄中で刺殺されたのかもしれない。

「自分という人間を全て受け入れてほしい」という望み傲慢なのであれば、「人間の多面性に目を向けない」見限りもまた、傲慢なのではないか。
本作を見終わった時、頭にそんな言葉が浮かんだ。

双方の意見を天秤にかけ、大衆と自己を物語のテーマとして据えるのも面白いかもしれない。




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