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患者様は神様なのか

昨今、医療スタッフや医療機関に対して危害を加えるニュースが後を絶たない。つい昨日も、診察中の医師を折り畳みナイフで刺し、殺人未遂で男が逮捕されるという事件があった。ニュースでは一命をとりとめたとあるが、複数個所刺されているのであれば重体化することもある。被害に遭われた先生の無事と回復を祈るばかりである。
似たような事件が、大きなニュースだけでもここ数年の間に何件も起きている。通院していたクリニックにガソリンをまき火をつけた患者、自分の母親に在宅医療を施してきた医療スタッフを銃で撃った男。なぜ患者から医療機関に対しての殺傷事件が起きるのだろう。


かくいう私も、薬剤師として調剤薬局に勤務していた。医師や看護師ほど、たくさんの患者と接するわけではないがそれ相応にお話しする機会はある。ニュースになるほどの大きな事件は今まで経験はないが、患者との間でトラブルになることは、正直言うと、ある。私だけではなく、医療従事者として働いていると少なからずトラブルに遭遇することはあるだろう。

トラブルの中でも、原因がわかるものがある。こちら側のミス、純粋な齟齬、患者さんの勘違い。こういった場合は、ほとんどが解決に近づいていく。こちら側のミスであれば誠心誠意謝罪しその後の対応をはかる。純粋な齟齬、患者さんの勘違いであれば対話を重ねて歩みよれば解決に繋がることが多い。

しかし、現実として、中には解決しないものも存在する。



医療は、生命の尊重と個人の尊厳の保持を旨とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手と医療を受ける者との信頼関係に基づき、及び医療を受ける者の心身の状況に応じて行われるとともに、その内容は、単に治療のみならず、疾病の予防のための措置及びリハビリテーションを含む良質かつ適切なものでなければならない。

医療法 第1条の2

医療に携わるものとして必ず学ぶのが医療法かと思う。
医療とは医療従事者と患者との間で信頼関係を構築し、それは良質で適切なものでなくてはならないといった趣旨だ。

医療機関に対する殺傷事件が起きるたびに、私はこの条文を思い出す。

患者に対し、医療従事者は医療を施すにあたって”生命の尊重と個人の尊厳”を保持しなければいけない。それはもちろんのこと。
だが逆はどうだろう。
医療従事者の”生命の尊重と個人の尊厳”は、医療の前にして置き去りにしていいのだろうか。


1.要求がエスカレートしていくケース


トラブルを頻繁に起こす患者がすべて、最初からそうであったわけではない。初対面は愛想がよく、ニコニコとしていることも多い。いわゆる”模範的な患者”だ。そういった患者から、「〇〇をしてほしい」と言われたら…。多くの医療従事者なら、内規に違反しない限り要求に答えようとするだろう。
そしてそこから始まっていく。

「あの病院では○○してくれた」
「あの人は○○してくれた」
「この前は○○してくれたのに。」
「対応がおかしいんじゃないの?」

誰もが一度は経験があるのではないだろうか。
小さな要求をひとつ叶えると段々とエスカレートしていく。最初の要求は本当に小さいものかもしれない。要求というより”お願い”といった方が近いかもしれない。”輪ゴムでとめてほしい”、”領収書は内側に折ってほしい”、”マスクを1枚欲しい”。最初は本当に”その程度”なのだ。そしてそこから始まっていく。
「この薬嫌いだから、こっちのに変えなさい」
「先発じゃないと嫌、全部先発品に変えて」
「待つのが嫌だから直接家にきなさい」
そのうち無理難題を押し付けてくるようになる。それができないと答えると”役立たずね””こっちは具合が悪い中きているのに、患者に対してその態度はどうなの?””こんな薬局つぶれればよいのに!”といったように怒りの感情を個人や会社に対してぶつけてくるようになるのだ。



2.「医療」に対しての信仰が強いケース


困っている人を助けたい、病気を治したい、救いたい…。
少なからずそういった思いを持って、何年も勉強して医療に関わる人間となる。
しかしどうだろうか。敵は”病気”であり、すべての病気が目に見えるわけではない。そしてすべての病気を治せる保証がない。
何年も勉強しても、何十年と医療に携わっても、医療が発達しても、中には救えない命がある。全力を尽くしても、どうしようもできないことがある。

「病院に行けば治るはず」「この薬を飲めば必ず治るはず」
程度の差こそあれ、そう思って患者は医療機関を受診する。そして医療者はその病気に対して最善を尽くす。それで治れば、ああ、よかった、で終わる。それで治らなければ、また別な方法を考えて治療を進めていく。
本来であれば、治療や薬が効かなかったときは検査値や体の様子を見ながら患者本人と相談し今後の治療方針を適宜決めていく。病気に対して一緒に向き合っていくのだ。

中には「なぜ治せないのか」と憤る患者や家族もいる。

医療に対して、医師に対して、薬に対して過剰なまでに信頼している。もはや信頼という枠を超えて、すべてを治す神のような存在として信仰しているといっても過言ではない。そしてそういった患者の病気がうまくコントロールできなかったとき、鋭いナイフのような言葉を浴びせてくる。

「病院に行けば治るはず”なのに”」「この薬を飲めば治るはず”なのに”」

自身の病気が治らなかったとき、思い通りにいかなかったとき、医療従事者を攻撃する。

「こんなに苦しんでいるのに治してくれない」
「こんなにつらい思いをしているのにわかってくれない」

医師に対して、薬に対して、医療に対しての信仰が強すぎるためか、一番に出てくる感情が「裏切られた」という気持ちだ。私たちは決して裏切っていないし、病気をコントロールするために方法を一緒に模索し対話しようとする。しかし、その患者にとっては神のように崇めていた存在が否定されたのだ。もはや話ができる状態ではない。そもそも神ではないのだが。

3.行き所のない怒りをぶつけてくるケース


医療従事者への攻撃や殺傷事件だけでなく、無関係な他人に危害を加える事例は多数存在する。
電車で液体を撒く、電車内で刃物を振り回す、交差点に車で突入する。
”自分はこんなに頑張っているのに報われない”
”報われないこの社会が悪い”
”他人が幸せなのが許せない”
自分の人生への絶望を、社会の責任へと転嫁し無差別的に行動を起こす。

「母親が死んでしまった。これから先どう生きたらいいか分からない」
「自分の人生に絶望してしまった」
「自分の病気が治らない」

その絶望のきっかけが医療に関わることであったら…
憎しみの対象は医療従事者になってしまうかもしれない。
中には本当に社会や医療に苦しめられた患者もいるのかもしれないが、それが他人を傷つけてよい理由にはならない。

患者様は神様なのか


患者は神様ではない。
そして医療従事者も神様ではない。
疾病に対して一緒に立ち向かう仲間である。
患者と医療従事者の間で、仲たがいするメリットが全くない。
同じ目線で立って、同じ目線で疾病を見つめる。
患者の生命の尊重と個人の尊厳を守り、医療を施していく。


長い年月をかけ、先人たちから受け継がれてきた素晴らしい学問。
ここまで医療が発達したのは研究に研究を重ね、様々な人たちが医療に関わってきたからだ。そしてこれからも発展していくだろう。

長い長い医療の歴史の一部に、自分が関われたことを誇りに思い、今日も患者さんと対話する。すこしでも、自分が持っている知識が誰かの助けになることを信じて勉強を重ねる。
                                                                                                                            

日々何かしらの事件が起こるこの世の中で、患者、医療従事者ともに人権が守られ、残酷な事件が起こらないことを心から祈っている。

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