スーパー メンタル コラプション

 どうも。僕の文章を読んでくれている方がいると聞きつけて思っていることを書こうとしています。あまりに思っていることが多すぎて全くまとまらないと思うけれど、あとで見返したら多分面白いので書いてみます。

 人に弱音を吐くことについて

 人間誰しも人に弱音を吐くときがある。それによって気分が晴れたり、問題が解決したりする場合もあるが、僕の場合そうではないことが多い。まず、僕の悩みは人に話せない部分が大半である。今このnoteですら書けないような、苦しくて、醜くて、僕ですら言いたくなくなるようなこと。その100%を「弱音」というポップな文体にすることが、不可能である。また、頑張って捻り出した弱音ですら、攻撃的で、誰にもいい影響を与えない、しかも僕の悩みの核には一切辿りつかないような薄〜い内容である。それを言うことには総じて意味がないのかもしれない、と最近思っている。いや、僕の悩みなんてその程度のものなのか?考えるとよくわからなくなってくる。でも、言葉や文にできない何らかの感情は絶対に存在するはずだ。

 ただ弱音を吐く行為をすることで、その話を聞いてくれる人がいる、という安心感を得ることができる。それで救われる場面が多く助かっているが、結局すぐガチ落ち込みモードに後戻りしてしまうのがだいたいである。人に弱音を吐くというのはそういうことだと認識している。


 弱音を吐くことがすなわち自分へのダメージとなることに、数年かけて気づいた。それでも、人に話さない限り頭がおかしくなってしまうほど崩壊してしまうことがある。もう、どうしようもない。どうしようもない。どうしようもない。

 死にたい。なんて言ったところで僕は死なないし、周りに心配をかけるだけだし、とにかく客観視すると馬鹿馬鹿しすぎて悲しくなる。親が腹を痛めて産んだ人間が、そんなことばかり呟いているのは見事に残酷で、意味のないこと。でも、死にたい。誰か助けてほしい。でも誰からも助けられたくない。

 今私は現在進行形で睡眠導入剤を飲んでいる。それを公表するのも私としては滑稽だと思ってしまうことだが、言うしかない精神状態である。何を言いたいかというと、文章がまとまらない。でもこれでいいのかもしれない。これが今のわたしであるから。

 死にたい。そう呟くたびに、言葉にもできない辛い思いが加速する。言葉や行動に出さない限り、そこに感情がある確証が持てないと言う感覚が少しだけあり、それでこうやって人に死にたい〜とか辛い〜とか言って自分の感情を証明しているのかもしれない。僕は、(一人称がメチャクチャになっているが、文章をまとめる気がないので続行する)自分に対するこだわりが強すぎるのかもしれない。みんなそうなのかな。わからないや。

 大学の1600字のレポートは永遠のように長く感じられるのに、もうこの時点でこんな日記に1100文字かけてるの意味わからない。負の感情はすごい。いや、それに脳みそのリソースを使いすぎているのかもしれない。もったいないな。

 人間一人では生きられない。でも僕は人が嫌いだ。いや、自分が大好きすぎるだけかも。そんな自分を少しでも否定してしまう周囲の環境が嫌いで、でも一人では生きていけないから、死にたいと思ってしまうのかもしれない。こんなに悲しいことがあるのか。悲しいなあ。

 こういうクソダサポエムを書いている自分が嫌いになってしまうのも、誰かがそれをしているのをみて嫌な気持ちになっている経験からきているもので、根本的な自己否定ではないのかもしれない。自分の軸、魂を愛しすぎている。だからその良さを誰かわかってほしい、というのは完全にエゴで、どうしようもない。

 これが僕が吐き出せる「弱音」の限界です。誰かいつか魂で語り合おうや。

 またね。

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