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忘却が奪った色は、血と涙で取り戻すより他ない

BLUEGOATS 『またね、おやすみ』に関する歌詞や、作詞者かいなさんの語りなどに沿って、つらつらと。

灰になりそうな思い出の中で、それでも必死にそれらの形を思い出して、自分の血と涙で色を与えていく
残す」ということは、本当に命がけの作業なのだから。

「久しぶり、あたし覚えていますか」の二重性

歌詞の冒頭部分。
この曲全体が、「今世では会うことができない友人への語り」というスタイルをとっている以上、「久しぶり、あたしのことを覚えていますか」という、友人への問いかけであると捉えるのが自然である。

しかしながら、後述の通り、「忘却への抵抗の歌」というテーマでそれを読み返せば、この箇所は「久しぶり、あたしはそのことを覚えていますか」とも解せるのではないか。

「あんなに大切だった日々」を忘れてしまいそうになることへの、形容しがたい恐怖と悔しさ。
そうした人間の残酷な仕組みとの決別を促した、強烈な出来事を入り口に、かいなさん自身の「留め置」こうとする戦いが始まる。

その覚悟を自身に問う、そう理解したくなる。

不作為から生まれる後悔の凶暴さ

「初めて自分の存在を認めてくれる他人に出会ったから、その時、本当に嬉しくて」

かいなさん自身の語り(Twitterより)

何気ないフリで1人にしないで
くれてありがとうって 何でか言えなかった

「またね、おやすみ」歌詞より

「何気ないフリ」に留めながらも、しっかりと「言え」た相手への敬意に対して、「何でか言えなかった」自分の不作為が、悲しいまでに露骨に対置されてしまう。

そして相手が同じ世界に存在しない状態になってしまったとき、「してもらったことを返せなかった」後悔の度合いは、必然高くなる。
特にその原因が、自身にとって特別であったからこそ、「そのことに対して、何かできたかもしれない」との思いは強く深くなり、自身の心を裂こうと暴れる凶悪な獣となる。

後悔すらも忘れてしまう魔性

「でも、もしあの時とか、その後に、「ありがとう」って言えてたら、今まだもしかしたら、会えてたのかもしれないなって思うと、「本当にあたしは何をしてたんだろう」と思って」

「でもこういう後悔も、私たちはいつか忘れていくと思うんですよね」

かいなさん自身の語り(Twitterより)

「ずっと見ていた」にも関わらず、あんなに感謝していたにもかかわらず、それでも忘れてしまうことに対しての、『自身の薄情さ』と『忘却という人間の残酷な仕組み』との間での葛藤。

こんなことも覚えていられない自分」なのか、「こんなことすらも忘れ去ってしまいやがる、人間という生き物の憎らしい仕掛け」なのか。

どちらが正しいのかではなく、どちらであってほしいのか。
それは永遠に決着することはなく、「結局忘れてしまうんだよね」と、半ば諦めに似た受容が顔を覗かせる。

いつかこの気持ちも 忘れていくのかな?

それでも忘れちゃうかな

「またね、おやすみ」歌詞より

それが、この「忘れていく」から「忘れちゃう」への変化に表れているのではないか。
仕方なさや自己弁護を孕みつつも、どうしようもない人間の仕組みに対しての諦念。
でも、それをただの時の流れの上に位置付けたくはない、そうした抵抗の気持ちが、「忘れちゃう」という自身の過失への結びつきに転じていると読めるのである。

あの大事な瞬間が、ただただ時間とともに消えゆくものなんかではなく、私自身の過ちによって消されてしまう。
あの記憶を私に繋ぎとめるには、罪という鎖が必要だから。

「ための歌」

忘れない
ための歌

「またね、おやすみ」歌詞より

ここで歌詞が、「忘れないための歌」ではなく、「ための歌」で切れていること、また歌唱においても、明確にブレスによって区切られていることの意味。
これこそが、かいなさんが「彼女自身」に、「あの友人」に、そして「聴き手」に対して与えた、決意と優しさなのではないか。

もう2度と私は忘れない、そのための歌

感謝では言い表せない、あなたのための歌

それでも忘れてしまうこんな私との、訣別のための歌

後悔をしているすべての聴き手が、救われるための歌

彼女の感情の迸りが、「そう思わせてくれ」と私に投げかける。

忘却と記憶の層構造

「その友達が、それを言ってきてくれた時の、自分の体勢とか、天気とかも覚えてて」

かいなさん自身の語り(Twitterより)

このこと自体は、明確な「記憶」に関する語りであり、ここに「忘却」が入り込む余地はなさそうに見える。

しかしながら、この曲自体のテーマである「忘却」は、「思い起こすことはできるけれども、それが常に意識されている状態にはいられない」こと、つまり「明確に思い出せるような大事なことが、思い出さなくてはいけない状態に追いやられてしまっている」ことへの葛藤として表現されていると考えれば、何ら不思議なことではない。

忘却と記憶の層構造

ここで、「忘却」と「記憶」について、1つの図を用いて考えてみる。
両者に関する研究は、相当数蓄積されており、ここでそれらについて語るつもりも、その専門性も持ち合わせていない。
したがって、自身の非常に主観的な印象論で進めていくことを、ここに断っておく。

「忘却」と「記憶」を対応関係として捉えた上で、それぞれにおいて3つの層で構成されている上図を考える。
まず、「記憶」については、以下の3層構造で説明できる。

:そのことが、あまりにも印象的だからなのか、あまりにも自身の価値観を深く問い直すようなものだったからなのか、理由は様々であるが、自身の人生観や価値基準に深く影響を与えるレベルにまで至った記憶群。これは、もはや個別具体的な事象として思い出せるものではなく、そうした記憶群が抽象度を最高にまで増した結果、自身の深いところに根付く結果となったものである。「自分自身を形成する」といった表現が使われる。

:そのことが、日々の生活や仕事の中で繰り返し活用されることによって、「実践知」として定着し始めるような記憶群。単純な記号や描写が、「実用性」を獲得することによって、記憶の定着度を増す結果となっている。

:先の歌詞にあるような、具体的に記述可能な状況や事物に関する説明が中心で、そのこと自体は自身の考え方や人生観に直結するものではないため、基本的には真っ先に忘却されていく。例えば、とりあえず明日のテストのためだけに覚えた英単語など。

続いて、「忘却」については、記憶の構造との対応で理解すると分かりやすい。

A:「記憶の①」と対応する。つまり、細かい事象等に関しては、すでに忘れ去られてしまっているが、それは単純な消去ではなく、「価値観」として抽象的に昇華してしてるが故の「変換」として存在する。

B:「記憶の②」と対応する。つまり、ここでも些末な事象等は忘却されてしまっているのであるが、「実用的なツール」として昇華しているが故に、こちらも「変換」的存在と捉えることができる。

C:「記憶の③」と対応する。つまり、それら自体には、特段大きな意味や意義が持たせられていないがために、定着することが難しく、すぐに忘れてしまうような、多くの忘却事象である。

ここまできて分かることが1つ。それは、「記憶」と「忘却」は二項対立的な概念ではなく、「ある事象を表裏からそれぞれ眺めて描写されたものに過ぎない」ということである。

したがって、ここでのかいなさんの「後悔」を、この構図によって捉え直すのであれば、「そのこと自体を説明的に記憶していることはないが、それは単純な記憶の消去でも、忘却倉庫への格納でもなく、彼女自身の人生観・人間性・彼女自身に大きく影響を与える形に変換されているが故に(つまり記憶の③として存在)、そのことに自覚できていなかった状態」とも言えるのではないか。
もちろん、こんなことが彼女への何かのメッセージであるというような、そんな大それたことではないが、私自身の願いにも似た、素直な想いなのである。

最後に、繰り返しになってしまうが。

「一人にならないようにしてくれた人」が「一人になろうとした」ことに対して、「一人にならないようにしたい」と祈る歌。
それは、「こんなことも忘れてしまう自分」への寄り添いの歌であり、「忘れ去られてしまう思い出を孤独にしたくない」という抗いの歌でもある。
それこそが、彼女の慈悲深さなのではないか。

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