"夢を見る"という自傷行為に対して、"諦め"は治療となりうるのか。
BLUEGOATS 9曲目『夢患い』に関する歌詞や記事などに沿って、つらつらと。
やりたいと思えることがある幸福と、それ故にそことの断絶があることへの悲哀。
幸せがあるからこその絶念、理想があるからこその現実への恐怖。
口を開いた絶望の淵を大きく跳躍しようとする、決意の歌。
「やりたい」「できない」に巣食う、「漠然」・「曖昧」という怪物
「やりたいこと」と「それができない今」との狭間で、自分の身の置き場を探し続ける。そんな「葛藤」がテーマとなったこの曲。
「理想と現実とのギャップ」と言えばそうなのであるが、この「理想」と「現実」の捉え方によって、その葛藤が持つ色味が変わってくることになる。
「いつかはこうなりたい/これがしたい」という「理想」に対して、どこまで具体性を持たせられているか。
「何となくこんな感じ」ぐらいの曖昧さだと、必然それを実現するための手段が不明瞭となり、いつまで経ってもそこに行き着くことはない。
こうした曖昧な「理想/夢」というものは、「絶対叶えてやる」というポジティブなマインドを惹起させるのではなく、「現状への苦しみ」に対する一種の鎮痛剤として機能することになる。
苦しい現状に対する”救い”としての「夢」は、その不鮮明さに比例して、薬物寄りの中毒性を増す。
「やりたい」「できない」にナイフを持たせる、「客観視」という悪魔
では、その「夢」が非常にリアルな肉感を持って、自身の内に表象されていれば、それは必ず「幸せ」な状態と言えるのか。
否である。
いや、もう少し正確に言えば、「そうではない場合もある」ということであるが、その追いかけている「理想」が具体的であればあるほど、そこまでに必要な能力・時間・リソースが明確になるわけであるが、それが「現状」とあまりにも乖離がある場合、その「事実」はそれ自身が有する鋭さでもって、私自身を容赦なく傷つけることになる。
自身がより「客観的」に、現状と「夢」との間のギャップを分析することによって、そこで明らかになった「差分」は、自傷行為のためのナイフに転ずることになってしまう。
「理想と現実」における赤青マトリクス
こうした、「理想」と「現状」における事実と認識の組み合わせを、4象限マトリクスに表現したものが、上図である。
「理想と現実とのギャップ」と一言で表現することの難しさは、その内実が最低でもこの8パターン(ネガティブな意味で言えば、Aを除く7パターン)に区分できることに由来する。
以下、それぞれについて説明する。
【A】
夢と現状との間に乖離が小さい/夢までの手段が明確で、実現可能性が高いと確信できる根拠がある場合において、夢までの努力は「明確な実績の積み重ね」として自己効力感を高めることになる。その場合、ここでの青色は、「見上げた先に広がる青空」という形で肯定的に理解される。
【B】
夢と現状との乖離が大きい/夢までの手段が不明瞭で、実現可能性が低いことが明らかな場合において、まさに典型的な「理想と現実のギャップに苦しむ」状態となり、この青は「苦悩に溺れる窒息の青」となる。
【C】
現状については冷静に分析できているが、到達したい目標は定まっていない場合、「今を懸命に生きていれば自然と夢が近づいてくる」思考になりやすく、いつ終わるかもしれない努力の苛烈さ・冷淡さに心身が削られてしまう。その場合、この赤色は「手あたり次第の自傷行為による流血の赤」となる。
【D】
将来に対して漠然とした不安を抱きながら、現状だけはありありとしてしまっている場合、人生の目的観や使命感の喪失による絶望に至る可能性が高くなる。その場合、こうした「今」の原因と思われる対象に対する、強烈な憎悪・ルサンチマンを抱くことになり、ここでの赤は「憤怒による激情の赤」となる。
【E】
将来に対して漠然とした不安を抱きながら、現状においても何ら満足いっていない状態の場合、己の存在意義自体に対して疑問が生まれてしまう可能性が高くなる。その場合、ここでの青は「行先も見えない中でもがき苦しむ窒息の青」となる。
【F】
今と未来において不明瞭の度合いが一定以上になると、そのことを考えること自体が気疎くなってしまう。その場合、「現状からの逃避」として、敢えて夢を漠然とさせ続け、享楽的に「今」だけに陶酔することになり、この青色は「一時的な快楽中毒の青」となる。
【G】
現状の理解が不十分にもかかわらず、目指すべき場所だけがはっきりしていると、「とにかく頑張るしかない」状態に陥り、いつ終わるかもしれない努力の苛烈さ・冷淡さに心身が削られてしまう。その場合、この赤色は「手あたり次第の自傷行為による流血の赤」となる。
【H】
「漠然とした今」から生じる強烈な不安に対する一種の鎮痛剤として、「自分は明確な夢を持っているから大丈夫、いつか成功する」という甘美な言説が出てくる場合、ここでの赤は「外部刺激からくる一時的高揚による紅潮」となる。
付け続けた傷が、美しさを帯びる日
それでは、各パターンにおいて、その状況を脱する(Aにおいては注意する)ポイントについて検討する。
【A】
他の7パターンと異なり、この状況においては「いかに脱するか」ではなく、「いかに維持するのか」に注力する必要がある。
特に大事なのは、「実現可能性」の精度について常にそれを確認するルーティンを組み込むことであろう。
「うまくいっている」という自信だけで、その点検を怠ってしまうと、気付いたときに理想と現実との間に懸隔ができてしまうことになる。
現状を冷静にチェックしながら、目標に向けて自身を鼓舞し続ける環境を用意しておくことが、Aパターンにおける勝負点となる。
【B】
「夢と現状との乖離が大きい」場合、基本的には夢までのステップをより細分化することによって、「達成可能なタスクの連鎖」に移行させることが考えられる。「まずもっての目標値を下げる」という方策も、この路線の亜種になる。
「夢までの手段が不明瞭で、実現可能性が低いことが明らか」な場合においては、その実現可能性をどう高めていくかにフォーカスする必要がある。まずは、不明瞭である手段について、現状取りうる選択肢を列挙した上で、優先順位を付けていくことによって、Aパターンに近づけることを試みるのがわかりやすい。
【C】
当然のことではあるが、「明確な夢を手に入れる」のが簡単であれば、それで済む話ではあるが、そうはいかないからこその「自傷行為」である。
であれば、この状況において、まずは「それでも努力している/足掻いている自分自身を認める」ことから始める必要がある。
そのことを明確に表現しているのが、『予襲復讐』のこの一節である。
先の見えない堂々巡りのように見える「今」が、その実、螺旋階段を上るように自身の経験値・スキルを高めているということに対して、妥当な自信を持つこと。
ここをブレない基盤とすることで、ようやく「成長している自身にとって、何ができるのか/したいのか」と適切に対峙できるようになる。
【D】
ここにおいては、今抱いている憎悪・ルサンチマンの対象が、「真なる原因」であるかどうかを冷静に問い直すことから始める必要がある。殆どの場合、ただの八つ当たり/責任転嫁になってしまっていることが多く、それでは激情の炎に身を焦がしてしまうだけである。
丁寧に分析してもなお、己以外に明確な対象があるのであれば、少なくともこの時点においては、「その原因の解決」を一つの目標として走り出すことは有効であると考えられる。その力動によって、人生に対する虚無を振り払うのである。
【E】
これこそが、「現代社会の病理」とも評される、社会の発展が生み出す巨大なジレンマの1つであろう。
それに対する有効な解答を、ここで提示できるわけはないが、幾人もの先哲が共通のアプローチとして提示しているのは、「その状況から引っ張り上げる存在・この現状に対して様々な価値観を提示しうる存在とのつながりを構築する」ことである。
この状況において、人は己が身一つで解決することはほとんど不可能に近く、誰かの助けを必要とする。そのためのつながりを見つけよ、コミュニティとつながれ、そういう示唆である。
【F】
ここでは、敢えて漠然とさせることによって麻薬と化してしまっている「夢」に、しっかり現実的な条件・要素という血肉を与えることで、Aに向けての方向付けをさせることが求められる。ここが見えて初めて、「では今の自分はどういう状況なのだろうか」という問いに向き合いやすくなることが多い。
【G】
結果としての表象はCと同じなのであるが、ここでは「自分自身の現状と向き合う」という実施難易度が低いアプローチが用意されている分、Aに対しての相対的な距離も近い。
但し、「なぜ現実と向き合えていないのか」という理由によって、その難度は大きく変化することになる。つまり、「実際はなんとなく分かってはいるけど、明確にしてしまうと、Bの状況で苦悩・絶望してしまうのではないか」という恐怖が先行している場合、先延ばし的にこの状況に甘んじている可能性がありうるためである。
とはいえ、先述の通り、Bにおいても適切なアプローチを取ればAに移行することは可能であるため、まずは「G→B→A」ルートを目指すのが現実的であると思われる。
【H】
ここは、Gにおける「なぜ現実と向き合えていないのか」に対する理由の1つとも捉えることができる。つまり、「現状が適切に把握できていない不安感からの逃避として、明確な夢を抱いているという事柄をあてがう」という行動原理が完成してしまっているのである。
そしてそれが一種のモルヒネ的作用を有しているが故に、そこから脱するのは容易ではなくなる。
ここに対してもE同様、当人の独力突破に期待するよりも、そこから「客観視」を提供する他者をいかに介在させるかというアプローチを模索する方が現実的であると考える。特に、Aの状況にいる友人の存在などによって、自身を冷静に見つめ直すきっかけが生まれるといった事例は多く聞くところである。
その手に何も握らなくてよくなったとき
ここで、「"夢を見る"という自傷行為に対して、"諦め"は治療となりうるのか」という問いに戻る。
「諦め」をどう定義づけるかということにもよるが、ここまでの議論を振り返れば、少なくともそれが最善策ではないことは断言できるのではないか。
自分が置かれている現状と、自身の有するリソースを丁寧に整理し、たとえどんな状況であっても、そこまでの歩みを受け入れていく姿勢。
そのことによって、ようやく「自傷行為のためのナイフ」はその手を離れ、自分自身をようやく抱きしめることができるようになる。
そうやって生まれた自己肯定感こそが、自身の眼を上へと向けさせ、そこで初めて「ありありとした夢」を描く準備ができるのではないだろうか。
この曲は、そうやって肉感を得た夢に向かって、やっと自分自身の一歩を踏み出そうとする、そんな決意の歌に感じるのである。