We have the choice to continue to live in the shadows of fear or to step out into the light of courage.
BLUEGOATS 『交差点』の歌詞や、作詞者ほんま・かいなさんの語りなどに沿って、つらつらと。
BLUEGOATSさんのTikTokにおける新プロジェクト「あなたのために私が書いた歌」で、①「好きな相手への幸せを願う自分と、それを叶えるのが自分ではない可能性への恐怖への励まし」を求めたコメントと、②「自身のキャリアに専念するために別れを切り出したパートナーに対する、純粋に応援したい気持ちと引き留めたい気持ちとの葛藤」に関するコメント双方への応答として制作された曲。
当初はサビ部分のみであったが、今回初のフルバージョン(先のMV)として完成をみた、という流れ。
「どこまでも聴き手に寄り添いながら、等身大の自分たちを表現する」
という、BLUEGOATSとしての「らしさ」と、NOMADSとの関係性がダイレクトに伝わる、いと良き企画。
人間交差点
敢えてベンヤミンを持ち出すまでもないが、自身の内側にある「此岸性」と「彼岸性」とのせめぎ合いとその超克、そして「わたし」と「あなた」という間主観的な状況における「こちら」と「あちら」のすれ違いと歩み寄り。
こうした区分を否応にも意識させるその「一線」は、「これまでの経験や外部からの影響によって引かされたもの」なのか、「ある種の諦念によって己が引いたもの」なのか。
そのどちらもが、彼女たちがMVの中で次々と歌い継いでいる、あの情景として立ち上がり、複雑な形で交わり重なりながらできている人間交差点。
何に「線」が引かれているのか/を引いているのか
当然のことながら、この曲の核となっているのが、①「好きな相手への幸せを願う自分と、それを叶えるのが自分ではない可能性への恐怖への励まし」を求めたコメントと、②「自身のキャリアに専念するために別れを切り出したパートナーに対する、純粋に応援したい気持ちと引き留めたい気持ちとの葛藤」に関するコメントの2つであることを鑑みれば、「自分/自分以外の誰か」「自身の中での対極的な感情」という分け方が主となると理解できる。
しかしながら、この歌詞やMV、そしてかいなさんの語りを解釈する中で、先の2つの分け方の中には、次の5つの視点があるように感じられた。
①自分/自分以外の誰か
②現存在としての自分/理想の自分 or 理想の相手
③過去の自分/これからの自分
④他者における「わたし/君」
⑤それを超克することの象徴としての「辛」と「幸」
以下、それぞれについて簡単に説明を加える。
①自分/自分以外の誰か
この曲の出発点と言っていいだろう。
つまり、「好きな相手への幸せを願う自分と、それを叶えるのが自分ではない可能性への恐怖」との葛藤の起点。
「本当はその場所には自分が“いるはず”/“いたい”」と思ってはいるが、これまでの経験や感覚から導き出される解は、この身体の外側にありありと存在する「アイツ/誰か/他者」という苦悩。
こうした明確な矛盾を孕んだ葛藤を、そのまま素直に相手に曝け出せるほど、「自分」は「自分」に自信がない。
というよりも、そこまで真っ直ぐ生きていけるのであれば、そもそもこんな苦しい思いはしていない。
こうした「自分」のfragileな優しさは、その繊細さゆえに美しく、その脆弱さゆえに自分を拘束する。
そんな「自分」とは対照的な存在に“見えてしまう”「アイツ/誰か/他者」の目の前には、異常なまでに越えがたい「一線」が引かれているように感じられる。
それは「自分」が引いたのか、「アイツ/誰か/他者」が引いたのか。
②現存在としての自分/理想の自分 or 理想の相手
ここでは、「理想像としての脚色が、幾分なされてしまっている相手」と、現実の相手とのギャップに対するショックについて語られている。
つまり、「こうであってほしい相手/こうであればポジティブな反応を返してくれるに違いない相手」を、ある程度リアルなレベルで想像してしまっているが故に、実際にそうではない生身の相手の反応に対して、「想像によって極端に膨張した差額」をpay backされる結果となってしまうわけである。
これは一見、「自分」と「外にいる他者」との関係性のように見えるが、実のところ「理想的な想像ができ、理想的な反応もできる、まさに理想的な自分」と、「ただ生の存在としてそこにいる自分」との明確な対比とも読み取れる。
まさに、「他者は自分の鏡」→「理想の自分は理想の他者として反映される」という構図である。
自分自身の中で、様々な自分が、想像によって創造されていく。
それは、無軌道に行われているわけではなく、基本的には自身の防衛本能にその根があると言えよう。
現存在としての自分が、できるだけ傷付かないようにするための、生存本能としてのfragileな優しさ。
しかしながら、ここでもその優しさが、自身を「過保護な苦しみ」に浸らせることになってしまう皮肉。
「~したい」という欲望は、「~できる」理想の自分に対するストレートな憧憬である。
なりたい相手は見えている。
なるために必要なことも分かっている。
それを現実にするための一歩に、鈍く重い足枷をはめる存在。
「でも だって まって どうせ」
常に立ち上がっては消失していく数々の理想と、それを「理想」たらしめ続
けるfragileな優しさ。
この輪廻はまるで環状線のよう。
抜け出す術はあるのか。
いや、だからこそである。
環状線はその構造上、渋滞を解消する術を持たないため(円環故に)、そのめぐっている感情は、吐き出すか別の形に昇華させるしかない。
この曲は、どんな形であれ、積極的に前を向かせるためにそのすべてが編まれている。
③過去の自分/これからの自分
ここでは、「自分」という単一存在において、時間軸という線を引いていく。
その線は、具体的にどのタイミングで引かれたのか。
「君と目が合」ったその時。
重い足かせを引き摺りながら、自身の想像が創り上げた理想の自分と「アイツ/誰か/他者」を見上げながら、際限なくぐるぐる回り続ける。
環状線の中を。
そんな、終わりすら意識させてくれない灰色がかったその世界に、色が咲く。
行けないと諦めていたその先へ、一歩踏み出す勇気をくれる色。
気付けば、「赦しの青」が涙で霞む。
その淡い水色の中でなら、どれほど失敗したっていい。
今がどうであるとかじゃない、「行ける」と思えたこと、その事実が大事なんだ。
同じ場所に立っていることは、そのまま同じフェーズにあることと同義ではない。
「足枷によって、越えることができなくて立ち竦んでいる」ことと、「越えていける自信と自由を得た上で、敢えてその場で受け止めようとしている」こととの間の、説明するのが野暮なくらいの懸隔。
ここでの「幸せ」は、「想像という砂上の楼閣の上で揺らいでいる、仮初の理想像」であり、それを雄々しい自尊心と勇気で拒絶すること。
受け止めることを避けていた、そんな弱い自分自身すらも、「赦しの青」で受容する。
そんな、一回り大きくなった自身の器に、これまでの感情すべてを入れ込んで、悠々と反対側を見つめる。
そこに立っているのは、成長した私/あなた。
④他者における「わたし/君」
MVの構成と歌割りを踏まえると、チャンチーさんの役割は、この曲における一つの要であることは間違いない。
そして、チャンチーさん自身が歌っている詞に着目すると、もう1つの視座が明らかになる。
ここでは、「わたし」が生存本能としてのfragileな優しさによって、勝手に作り上げられた「理想の相手」ではない、「現世界を生きている相手」の本音が歌われている。
肯定したくなかった弱い自分こそが、ここでは「越えてきてほしいあなた」であるということ。
それが、懇願にも似た感情で吐き出されている。
お手本のようなすれ違い。
並行世界から眺めることができない、無力な人間の限界。
だけど、だからこそ生まれる淡い切なさと、痛烈な情念。
一歩踏み出せば味わえるカタルシス。
この切り方のセンス!
・・・の話はするだけ野暮なので(まさに「言われなくたって分かってるよ」案件)。
素直に読めば、これは「わたし」側の、つまり「弱い自分」の告白ではあるのだが、チャンチーさんの歌唱パートであることを踏まえると、これは「相手」側の心情吐露としても解釈できる。
つまり、この曲での「相手」は、常に「わたし/じゃない方の君」に対して、一方的に行動(=線を引く/線を越える)を求めるスタンスだったわけだが、それこそ「自身から動くことができない弱さ」の反映ではないかということである。
「じゃない方の君がもっと頑張ってくれれば」という願いは、まさに「わたし/じゃない方の君」における「想像という自己防衛」に相似する。
そうであれば、この曲においては、その「相手」も救われることが確定する。
「じゃない方の君」に「赦しの青」が見えたのであれば、その反対側にいる「相手」からも、同じ色が見えているに違いないから。
それこそが、「交差点」であることのエッセンスであろう。
⑤それを超克することの象徴としての「辛」と「幸」
「幸」:手枷の象形ではあるが、それが外れて罰を免れる or それをはめられること自体から逃れることから、「さいわい」を意味する。
「辛」:鋭い刃物の象形であり、それで刺されることを意味する。転じて、そのような痛い感じの意も含む。
成り立ちだけを見れば、この2つの漢字は、偶然形が似ているだけではあるが、「その文脈内で、それをどう解釈するのか」こそが人間個性の醍醐味であると捉えれば、やはり「真逆の状況が、その実一線の差でしかない」ことは、非常に意味深長であろう。
「一線を引く」こと、「その線を越える」こと。
自分自身の弱さ、保守的傾向、優しさ、そのすべてを一度俯瞰する。
対峙すべきものを、客観的にその両の目で捉え、「異常に嵩増しされた恐怖」を等身大に収める作業。
このリアルの地上において、生の実践でもって。
こうして「わたし」と「相手」のそれぞれの想いで築き上げられてきたこの曲も、最後に至って両者は溶け合い、大きな愛という器ですべてを1つに吞み込んでいく。
過去の「灰色がかった世界」から、「赦しの青」に。
fragileな優しさを、正しい克己心で乗り越えて。
それでも、人間は弱くて儚くて。
いつだって心は、「理想を生み出す防衛本能」と「正しく踏み越えようとする勇気」の間で揺れ動く。
そんな、名もなき私たちを、それそのままで受け入れてくれるもの。
その大きくて、温かくて、厳しくて、正しくて、輝いているもの。
そうしたものを、私たちは「愛」と名付けたくなるのだろう。
そして、「僕」の人生では、「僕」しかそれを「愛」とは呼べなくて。
蛇足という名の大秘宝
最後に、MVの中でチャンチーさん以外の御三方が、つなぎをお召しになっていることの意味について。
もちろん、色を塗ることとその職業的意味との連関から解釈することもできるだろうし、「じゃない方」の象徴=没個性としての意味として捉えることもできるかもしれない。
とはいえ、ここは「つなぎ」という言葉それ自体で遊ぶことにすると、それはまさに「続服」とも言われるように、1つにつながっていること=「ひとつなぎ」であることが原義であることから、「“わたし”と“相手”で分けられているように感じていたが、実は交差点で向かい合っていた2人は、どちらも同じ“わたし”だった」というテーマ性に帰着できる。
そんなメッセージ性それ自体が、この曲の最果てに位置していたのではないでしょうか。
四畳半で韻倶楽部
押韻に関して異常な拘りをみせる私の、癖撒き散らしのまとめ侍。
・「大切なほどに」ー「 痛い切ない」
・「会いたいほどに」ー「相対して」
・「言う気ほどの」ー「勇気もないから」
・「大切なほどに」ー「会いたいほどに」ー「言う気ほどの」
・「ぐるぐる巡る」 ー「湧いてくる」
・「環状線上」
・「向こう」ー「青を」(歌い方での押韻)
・「黒」と「(くれ)るの」ー「(き)てよ」と「でしょ」(交互韻)
・「よりどりみどり」ー「1人きり」
・「傷付くほど」ー「気付く思いのあと」
・「ぐるぐるめぐる」ー「 息苦しい」
・「錆びない寂しい」
・「渋滞のまんま」ー「辛いまんま」ー「荷物のまんま」ー「このまま」
・「持つに持てずに」
・「変わりたい」ー「分からない」ー「愛をあげたい」
・「だって」ー「まって」ー「どうせ」
・「白黒だけの世界」ー「空の色を知りたい」ー「君と目が合い」ー「とっくのとうに青い視界」ー「転んだっていい」
・「飛び込んできてよ」ー「1つ線は消えたとしても」
・「色は変わる」ー「君も変わる」ー「1つ変わらない愛のこと」
・「1つ変わらない愛のこと」
・「瞬く 赤青 心ごと」
この押韻量にもかかわらず、自然と心に入ってくる感じ。
こうした歌詞を指して、「清涼韻量水」と呼ぶことにする。
おあとがよろしいようで