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自分を蔑ろにしてると主体性がなくなる
社会人になってからずっと悩んでるのが、主体性のなさ。
自分から動いて物事を進める、ということが本当にできない。
そこには、色んな原因があると思う。
責任を取りたくなかったり。
自分に自信がなかったり。
だけど根本的な原因として思うのは、「自分を蔑ろにしているから」ということ。
「自分で自分の意思を尊重できてないから」と言い換えてもいい。
仕事以外の場でも、「自分はどうしたいのか?」という意思が持てなかったり、意思を持つまでに時間がかかることが多い。
仕事だと経験不足や知識不足も相まって、自分のせいで周りに迷惑をかけるのが怖くて、自分を打ち出せない。
自分の意思が分からなくなるのは、幼少期から自分がどうしたいのか考えることなく過ごしてしまったから。
周りの言うことに従って生きてきた「いい子」な私は、気づいたら言われたことしかできなくなっていた。
何かを言ったとしても、「何も分からない子供のあなたの言うことは世間知らずで正しくない」という扱いだった。
だから、自分の言うことは間違っていて、相手の言うことが正しいのだという強固な思い込みができあがった。
そう思ううちに、自分の意思を持つことをしなくなり、そんな中で、いつかこんな生活から抜け出したいと、大人になって自由になることばかりを夢見ていた。
学校生活を送る中でも、「謙虚でいなければならない」と学んだ。
中学生の時、「謙虚というのは〇〇(私)みたいな人だよ」と先生に言われた。
それまで謙虚な自覚はなかったけど、人からは謙虚に見えているのだと思うと、そのイメージを崩したくなかった。
「謙虚」を「自分を出さない」ことだと勘違いして、ここまできてしまった。
そんなふうに生きていたら、自分なんて取るに足らない存在なんだというセルフイメージばかりが膨らんでいって、何をするにも「できない自分」から抜け出せないだろうと、無意識のうちに思うようになった。
だけど、それと同時に「できない自分」であることで、自分に向き合うことから逃げている側面もあった。
「できない自分」が何かをすることで、「自分」の存在を意識せざるを得なくなる。
だから、そんな「できない自分」に向き合うのが怖くて、自分から行動を起こせなかった。
こうして、これまでの経験によって抱いた「できない自分」というセルフイメージと、それを書き換えることをしないで自分から逃げているから主体性がないのだと思う。
「できない自分」と向き合うのって、心が痛い。
自分の意思を持って自分の責任で物事を進めていくのも、きっと大変。
だけどそれ以上に得られる経験があるし、その経験によってさらに自分の意思が明確になっていくのだと思うから、やっぱり自分で自分の人生を創っていくことから逃げてはいけない。
これまでとは違ってもう大人なんだから、どういう人生を生きたいかは自分で決めることができる。
あの時願っても手に入れられなかった「自由」は、自分でコントロールできる部分が増えれば増えるほど手にすることができる。
主体性を持つことは自分の願いを叶えることでもあるのだった。