言葉について
言葉なんて無意味だ
思考が表面化した途端
それは全くの別物になってしまう
そう思いつつも私はこうして
言葉を綴り続けている
何の意味があるかはわからないけど
人間が持たされた 言葉 という存在と
ずっと一緒に居続けてしまうんだろうな
簡単に言葉を吐き出せる時代だ
SNSを毎日見てしまうと
それだけで疲れるだろう
ニュースを毎日見ていると
それだけで世界が真っ黒だと感じる
言葉の使い方もさまざまで
混乱してしまうことが多い
思っていることとは違うことが
言葉として表れることがある
なぜそこに至ったのか自分でもわからない
人間の思考が複雑だからなのか
素直になれなかったからなのか
それぞれに理由があると思うけど
言葉に対する思いは人それぞれだから
「好き」と言っても
解釈が違っているとそれだけですれ違う
代々受け継がれてきた言葉の意味に
違和を感じる人もいると思う
人の心理を表すための言葉ではなかったのに
現代では乱用されてしまうことがある
なにもかもが一致しない
「えぐいね」
と言われて傷付く人がいる
もちろん、タケノコを食べているわけではない
傷付いたのは自分にあるパーソナルな部分を
「えぐい」と言われたからだ
「イライラする」
と言われて傷付く人がいる
言った人は
「あなたのそういう所が嫌なの」
と伝えたかった
だけど言われた人は
「イライラする」という言葉を
もともと人に対しては使っていなかった
言葉のキャッチボールはとても難しい
だからといって
言葉にするのが怖くなると何も伝えられない
伝えようとしても
どの言葉を選択すればいいのかわからなくなる
そして黙ってしまう、笑ってしまう
泣いてしまう、俯いてしまう
動物は真っ直ぐだ
今、私は猫とふたり暮らしをしているのだけど
その子(名前はカルダモン)はとてもお喋りで
いつも何かを言っている
人間語をしっかりと理解している
口から出る声が「にゃー」しかないだけであって
バリエーション豊かに教えてくれる
ちゃんとコミュニケーションを取ってくれる
とてもありがたい存在だなあと
何度も何度も抱きしめる
まあ、抱きしめて逃げられることは多いけど
それは私が抱きしめたくて抱きしめているからで
カルダモンがそういう気持ちじゃないからで
ちゃんと、そういう気持ちの時は
「んにゃ」と言って肩に手をまわして
抱っこの体勢になってくれる
私は 抱っこ の意味を持つ
カルダモンの言葉を理解している
と、思う
いや、こういう思い込みこそが
言葉のすれ違いを生むのかもしれない
特に動物に対しては
言葉が使えないことをわかっているから
言葉以外の見えない部分を
しっかり見ようとする
だからこそ、なのかもしれない
現代の人には
スマホやパソコンという
とても便利な機械が常にくっついていて
メールやLINEのやりとりで
何かを済ませることができる
対話ではなく投げ合い
だけとは限らないけど
思いが強くなればなるほど
身近な存在であればあるほど
無意味な言葉が生まれてくる、気がする
「だと思う」とか
「なのかもしれない」とか
「気がする」とか
今書いている文章をさらっと見直すだけでも
逃げるような文末が多い
断言できずにいる
だって怖いから
言葉に絶対はないから
誰も傷付けたくはないから
だけど生活する上で言葉は必須で
どうしても使わなければいけない
どうしても、なのかはわからないけど
今現時点での私にとって
言葉という存在は必須なんだ
何かを言ったあとに後悔することがある
だけどそれは言ったからこそ気付けたことで
言わなかったら言わないまま
言われるはずだった言葉たちは
きっとゴミ箱に捨てられていたんだろう
下書き保存もされずに
ゴミ箱から完全削除されてしまうのだろう
私は言葉を発し続ける
書き続けるし送り続ける
その中で本当に大切なことは何なのか
その都度ちゃんと向き合いながら
言葉のすぐ隣で
触れられる距離で
肌身離さず、持っていようと思う
せっかく覚えた言葉たちなのだから
何も言えなかった産まれたてのあの頃とは違う
言葉を使える人間になったのだから