245. わたしにつながる全てのものよ
マイノリティなわたしの心に
残る映画やアニメが一般的には
評価されないことはよくある
話で、2006年公開の
『レディ・イン・ザ・ウォーター』
も業界では、不名誉とされる
ゴールデンラズベリー賞を
受賞している。
これもある種の〝見せしめ〟
的な意味合いを持ったもの
だったのかもしれないと
今なら想像できる。
わたしの感動ポイントは、
お姫様の背景やその後ではなく、
同じアパートに住む人々が
それぞれの役割に氣づいて
各々のスペックを発揮する
その一点に尽きる。
その場で必要とされる事を
出來る者がそのためだけに
集結して役割を終えると
再び解散する世界がわたしの
理想とする世界だからなのか、
この映画はとても響いた。
実生活でそんな場面いくらでも
あるじゃない。
盲目のお爺さんが横断歩道で
立ち往生してるとか、自分が
座ってる前にお年寄りが來た
とか、ティッシュなくて
困ってる親子が向こうから
歩いてくるとかね?
ぁ、いつだったか新宿駅で
沢山の荷物持ったベビーカー
ママさんが階段上がろうと
したたから声かけたら不審者
見るような目で「大丈夫です」
って断られたけど、それは
それでOKなんだよね。
手伝おうとした事ではない
ポイントで彼女の中の不審を
投影させる役割を担えた訳
だから。
数ヶ月前にTwitter村でこんなん
流れて來たの。
これよ、これ‼️
しかも、上級スキルじゃねーか❗️
って感動しちゃったのよ。
これがネタでも良いわけ。
わたしの〝好き〟が再確認できた
のだから。
で、数日前の夜、パートナーと
たまたまレディインザウォーター
の話になって、わたしはああいう
世界が好きなんだと、かつて、
居合わせた場所でヒーラーが
物理的な癒しを施し、わたしは
疑いの目を向けられながらカードを
通じて伝えるべき事を伝え、
その場にいた全員で創造した癒し
の場で起こった奇跡の思い出話
をしつつ、やっぱり、あれ以上の
手応えなんてないんだよなぁ‥
と懐かしく思っていた。
ぁ、手応えって、癒しの度合い
云々ではなく、わたしが此処に
いる事を肯定的に思えるという
意味の手応えね。
そんな事があっての昨日、こんな
呟きが流れてきた。
内奥からとんでもないボリューム
の「よしっ❗️❗️」という声と
ガッツポーズしてるのが届いて
ヒャッホー‼️と喜ぶつもりが、
あの時のビジョンが差し込まれて
涙が出て込み上げて來てアレ?と
思ったら嗚咽してた💧
戸惑うわたしを置き去りに泣き
声は隣近所に確実に聞こえてる
レベルにまで大きくなったもん
だから何とか止めようとするけど、
子どもが泣きじゃくるが如く
止まらないことから大事な場面と
氣付いて、そのまま泣かせて
おいたらようやく落ち着いたので
夕飯の仕込みを‥と動き始めたら
また嗚咽からの号泣wwwww
もーアカン。
何か決壊したなってんで完全
サレンダーを決め込んだら
号泣泣き止むをしばらく繰り返し、
収拾つかないから泣きながらSOS
を要請したら、こんな流れてきて
今度は爆笑が止まらずまたまた涙。
ネタなことはわかってる。
大事なのは、わたしがこれを
見て爆笑したこと。
SOSに応えてもらったという点。
とにかく、涙の振り幅がハンパない
一日となったわけだけど、中止に
なった旨の喜びを呟いたら本人が
予想だにしなかったほど共感して
くれる人がいて拡散してくれた事
には驚いて、あの号泣の意味を
知らなくても良いと思っていた
けど、反対を熊本県や宮崎県に
訴えたことで〝いつかの約束〟
が果たせたことへの涙がだった
のだと理解した。これもまた、
レディインザウォーター方式
なんだよね。
Mi Takue Oyasin
mi:わたし
takue:つながり
oyasin:すべてのもの
わたしは全てのものとつながっている
というラコタ族の大好きな言葉。
レディインザウォーター方式は、
わたしが全てのものと繋がっている
ことを裏付けており、それは、
この肉眼がどう見ようとも、
我々がそもそも一つであることを
知っているということになる。
一つになろう。
耳あたりの良い言葉ながら
そこには、良くも悪くも発する
者のegoが乗っているため、
混乱も起こりがち。
我々が一つであるという前提
から世界を見るタイミングが
ようやく來たのかもしれない。
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