無駄こそ人生のエッセンス
今年の2月あたりに、己の内側がそっくり入れ替わったような感覚がした。
以前までの私は部屋の片づけができず、家事もできず、浪費家で、いわば無駄の集合体のような人間だった。
現在は生活習慣を是正し、常に部屋をきれいにし、たどたどしくも家事をこなし、衝動買いを堪えられる、以前よりも善い人間となった。
周囲から「無職の癖に」と攻撃されることも減ったように思う。
自分自身現状について、無駄を排することが善であり、人生が上向いていくに違いないと疑わなかった。
現在6月中旬。
いよいよ少ないお小遣いから貯金をしようと考え始めた。
現在は恋人以外と遊ぶこともないので、交際費と生活に必要な物への出費以外は全て貯金する。
部屋からどんどん物がなくなり、代わりに掃除しやすくなってきた。
その分、楽しさや喜びみたいな感情が薄れていく感じがした。
以前まであった趣味も、老いによってときめきを維持できなくなった。
遠征やグッズ購入等をしなくなったので、恋人と遊ぶ以外、外に出ることは無くなった。
お金を使う趣味はもったいない、有意義でないと無駄を蓄積しているようで、胸がソワソワするようになった。
絵を描くのもエッセイを書くのも、頭があまり働いていない午前中にやるようにした。
絵も文もお金になる可能性が低い。無職なのにそんなことに費やしているのが合理的でないと思えた。
ただ、資格勉強をしている時だけは心が落ち着く。おそらく「いつか役に立つかもしれない」という見通しが立てやすいのだろう。
「資格を取っても無駄だ」という声は聞こえるが、無職にとっては無いよりマシだと自分に言い聞かせた。
無駄がどんどん消えていく。
ダイエットで過剰に体重数値を減らすときのような、キリキリとした快感を覚える。
家計簿をつけ始めたり、勉強時間を記録することで、どれだけ自分が無駄なく過ごせたかに焦点を当てるようになった。
唯一無駄でもいいと思って買ったスライムの置物も、「あれは無駄ではないのか?」と問われ「ああ、無駄遣いだったな」と思った途端、いらないものにしか見えなくなってしまった。
何だか苦しい、ずっと箱の中に押し込められているような窮屈さを覚える。
趣味は無理やりに作るものではないし、他人から押し付けられるものでもない。
だから、いつか楽しいと思える趣味ができるだろう、と思いながら5か月が経過した。
昔の自分はどこへ行ってしまったのだろうか。
人との出会いを大事にし、ときめきや興奮を感じていた自分は、もう二度と現れないのだろうか。
そんな不安を抱えていた矢先、他人から「あなたは強く合理的な人間だ」と言われ、かなりダメージを負った。これは図星だったからだと思う。
善い人間であろうとした結果がこれか。
ただ切羽詰まって、周囲にイライラして、それこそ周囲にとって無駄な人間ではないか。
無駄を愛せる人間は、人生に余裕がある。
私は人生に余裕がないが故に、無駄を愛するキャパシティが無いのだ。
それに、家に引きこもってばかりいるのだから、体力も落ち、出会いも減り、そりゃ趣味も娯楽も受け取るセンサーが反応しない。
今は少しでもいいから、無駄を愛していいんだ、と思いたい。
そう思えない事には、自身がこの世にとって『無駄』であることも許せなくなるから。
軽躁や気温変化、クーラーの風の不快感などから気が滅入っているのも事実だ。
感情の機微をできる限りポジティブに受け取り、実際に発生している問題を除去していくことが、現状において最善だろう。
そうして心に安寧が訪れた時、初めて無駄を愛せるはずだ。