『部外者』である私
2024年、元旦。
祖母の家から帰宅し、酒を飲んで横になっていた。
しばし微睡んでいると、地震が起きた。
天井を眺めて収まるのを待っていたが、次第に揺れは大きくなっていった。
父の部屋に行き、慌ててテレビをつける。
アナウンサーの切迫した声から、とんでもない事が起きていると理解した。
岐阜も何度か揺れ、またスマホからサイレンが鳴るのではないかと気が気でなかった。
2024年、1月2日。
少し気持ちを落ち着けることができたので、のんびりと正月を過ごしていた。
父と晩酌をしていると、今度は飛行機が燃えている映像が映った。
ツイッターで情報を集め、何とか乗客は無事であることを確認した。
海保の方が亡くなられた速報を聞いて胸を痛めた。
そして、こうして今、noteを久々に書いている。
この日記に共通しているのは、私はこれだけ日本で大変なことが起きているにも関わらず、どうしたって『部外者』であるということだ。
それでも、影響を受けてしまいやすい私は、不安になり、眠れず、挙句の果てに統合失調症の症状まで出る始末だった。
「見なければいい」と言われても、気になるのは事実で、SNSを開けば様々な情報がうねりを上げて流れ込んでくる。
特にリアルタイムで情報が更新されていくので、時には「これテレビで映して大丈夫な奴か?」みたいなショッキングな映像を見てしまうこともある。
完全にシャットアウトできれば問題はない。
シャキッと切り替えられる強い心さえあれば、と思ったりもした。
部外者であるにも関わらず、これだけ揺さぶられている自分がなんだか悪いことをしているような気分にもなった。
しかし、実際に被害に遭われた方も、私も、生きている以上は絶対に、生活は続いていく。
現実は塗り替わることなく、突きつけられた今を粛々と受け止め、こなしていくしかない。
以前、311の時に見かけたツイートで「不謹慎だと思わず、日常のツイートをなさってください」という内容のものがあった。
日常が壊れたとしても、同じ国のどこかで日常を過ごしている人がいるという事実。
それはSNSを通じて、誰かの生活を、わずかながら支えているのかもしれないのだ。
落ち込んでもいい、泣いてもいい、焦ってもいい。
名も知らぬ他人を想い、心を痛めたっていい。
しかし、『部外者』である私達にも続けなければならない生活がある。
その中で、少しでも余裕があるのならば。
寄付をする、支援物資をする。
情報の精査をしながら、SNSなどで拡散する。
やり方はいくらでもある。
出来ない人は、できなくていい。
目の前の自分の人生を懸命にこなしていくのも、確実に未来につながっていくはずだから。
無理をせず、落ち込んだ心に嘘はつかないで。
自分の生活を、人生を、少しずつ紡いでいこう。
続いていく。
何があろうとも、人生は命がある限り続いていく。
無為に過ごしてもいい。
どうしたって心が疲弊している時は、治癒に時間を使ってほしい。
心は壊れたら、二度と同じ形には戻らないから。
母が亡くなって2年が経過しつつある。
あっけなく人生が途絶えた人間を見たことがある。
それでも、私の人生は止まることなく、立ち止まった母を見送りながら、今もこうして生活を続けている。
各位、無理をせず、お過ごしください。