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生きてまた会おう

 はいるです。さちこから「落ち着いたら何しよう」というテーマが来ましたが...。愚問じゃん?そんなの他人と飲酒、カラオケ、キャンプでフィニッシュに決まってる。その中でも、「酒を飲む」という行為は、コロナ禍の今こそ、そこに自分が見出していた意味や価値を再確認している。

陳列のその先

 家に居ることが多くなってわかったのは、そんなに「飲むこと」自体に興味がないということだ。実際、さっきもヨーグルト酢の炭酸割飲んでたし。健康かよ。
 飲むときには、好きな人たちと、美味しい料理を食べながら喋るというのが良いのだ。美味しいものを共に食べる、というのは、人生でかなり重要なことだと思う。同じものを同じ空間で食べている、ということが、どれだけ心を通わせる行為だったのかと、改めて感じる。心が緩まるのだ。距離が縮まる。お酒はそこに高揚感やリラックスを添える、おまけのような感じだ。
 そういう場だと、普段はしなかった良い話が出来るし聞ける。わたしたちはいつも、社会の中で生きている時、果物のように、皮に包まれて綺麗に並んでいるけれど。お酒の場だと、それがするっと剥けるときがあって。相手の実に触れたとき、その味が嬉しい。そのために飲んでいるといっても過言ではない。いつもは言ってくれないその一言を、大事にする夜は幾度となくあるよ。

母も女も大人も全部あるから

 夜に別れてから、一人の帰り道も好きだ。暑い夏の夜風が優しいのも、寒い冬にキリっと耳や鼻を冷やす夜も。純粋に、自分のことを想える。独立した、一つの個体としての自分を取り戻す。
 母親になると、自分が子供のためだけの存在のように思えてくる。自分が何が好きで、何がしたいのか、子供に合わせているとわからなくなってくるのだ。だから帰り道は一人歩く。自分を取り戻す作業をする。もともと好きだった音楽、社会の中にいる大人としての自分、30歳の女であること。結局最後は一人なんだというほんの少しの寂しさが、わたしを立たせている強さでもある。
 でも不思議なことに、家が近付いてくると、母親としての感覚も戻ってくる。子供の落ちそうな頬や、可愛い声、一緒に手を繋いで歩いたことが自然と思い出される。その役割は、仕方なく押し付けられたものでなく、自らが決断し、選び取ったものであることを思い出す。
 いつでも一つの役割で居続けることは難しく、自分の中には母も女も大人もグラデーションのように在って。「こうじゃなきゃいけない」と、何かひとつに囚われてやしないかと、飲んだ帰り道がいつもそれを教えてくれる。

思った以上に

 わたしにとって、誰かと飲むことは、相手の心に触れ、自分自身に触れることだから。思った以上にそこには意味と価値があるのだ。沢山食べて沢山話そう。生きてまた会おうと星野源は歌った。一人帰り道で寂しくなるところまでセットで、あなたとまた会える夜を心待ちにしている。

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はいるとさちこの交換エッセイ
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