"要約"が苦手なワケ
コンプレックスがある。
それは
"話が長くなること"。
そのせいでと言ってはなんだが、
限られた時間内でコメントを求められる時、
4、5人での会話で発言したい時、
私は、だいたい遠慮して、言いたいことを飲み込む。
そのまま頑張って言葉を発しても、
まとまらない→伝わらない→焦る→オチを見失う
といった感じのスパイラルに陥って、後悔するのは目に見えている。
だから、それを逆手にとって、
わざとディープな飲み屋さんに入り浸ったり、
果敢に買い物中にそこらのお客さんに話しかけたり、
そういうことを自ら進んでやるキャラクターを作り上げた。
でも、苦手なものは苦手だ。
訓練のしようもあるのかもしれないが、
最近ふと「だからか!」という理由を思いついたので、
まずは書き留めることにした。
長年描いている『将来の夢』
これが、その「理由」だ。
私は、「場」をつくりたい。
もともと、会話が苦手で、自分の思っていることを伝えるためには
「絵」や「写真」「音楽」など、色々使い分けながらここまで生きてきた。
言葉が苦手だったわけではない。
喋り出したら止まらない方だし、作文も得意だったので、よくコンクールや弁論大会とかに出ていた。
自分がいて、相手がいる、「会話」が苦手だった。
さて、ここで将来の夢の話になるが、
私の夢は「自分の幼少期の体験を一人でも多くの人にシェアすること」だ。
具体的には、森の中で、家族で畑をしながら、ペットや家畜、野生動物と暮らす…というような体験を、「イベント」「食堂」「宿」などを経営することで他者に向けて再現していけたらいいな、と思っている。
それが、もう10年以上思い描いていることだが、ふと、
「なぜ、エッセイを出版する」でも「そういうスクールを開く」でもなく、
実際に畑の中でやろうと思ったのか?と自分に問いかけてみた。
答えは
「それが、一番、正確に伝えられる方法だと感じているから」だった。
無駄なものなんかないはず
将来の夢から、もう少し核心に近い例で「小説」についても…。
好きな短編小説に
『グースベリーの熟れる頃(宮本百合子)』というものがある。
この中で気に入っているフレーズは
"冬と春先のみじめな東北の人達はだれでも力のみちたはずむ様な夏をやたらに恋しがる通り仙二は夏をまだ雪の真白にある頃からまって居た。"
なのだが、これは、現代で自分も相手も限られた時間の中で、要件を伝えなければと思っている時には、まず使えないであろう。
"仙二は夏を待ち望んでいた。"
というだけなら、削れる単語が山ほどある。
でも、この一文は、ここにある全ての単語に役割があって、全てがこの順番で並ぶからこそ、読者はふわふわと筆者の頭の中に入っていくことができるのである。
確かに、時は金なりともいうし、普段使いする言葉は、端的かつ直球であるべきかもしれない。
ただし、それは、逆にそこから連想されるものに個人差が大きく出る恐れもかなりあると、私は思う。
詳細まで絵や動画として頭に浮かんでいるものを、言葉に変換して伝えろ、
というのは、結構リスクのある話だ。
ということで、私は、
今後この発見をどう活かしていくか、考えていこうと思う。
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