「ふれあい動物園?」から考える共生社会
先日、車椅子ユーザーのタケヒロさんのツイッターでの発言を基にした記事を拝見した。
既視感。
今から5年ほど前、ダウン症のある長男が幼稚園の頃に園長先生に言われた言葉に私は
「うちの子は道徳教材じゃないんだけど」
と思ったのだ。
当時、私は今よりももっとぐずぐすに豆腐メンタルだった。学校やママ友、頼れる先が複数できた気がする現在では木綿豆腐くらいにはなったと思うけれど、当時はまだできたてホヤホヤの絹ごし豆腐くらいのデリケートさだった。
なので、定期的に設けられる園長先生との面談後は家に帰ってから園長先生の言葉を反芻して涙することが何度かあった。たとえ傷つくことを言われても、どーんと構えて受け流す母像が理想だけれど、どうしてもそうはなれない。
で、当時、私が涙した園長先生の言葉のひとつに
「○○くん(長男)は、いてくれるだけでありがたいんです。」
という言葉がある。15分弱の面談の中で二回、言われた(二回目は「本当にいてくれるだけでありがたいんです。」だった)。
一見、いい言葉。その場では私も「(いつもうちの子を見ていただいて)すみません。(そう言っていただいて)ありがとうございます。」というような返答をした。
しかし、家に帰ってから、「やっぱりうちの子は周りの子とは違うんだなぁ。はっきりと線を引かれた気がするなぁ」と改めて感じて涙が出た。そして同時に、「うちの子は道徳教材じゃないんだが」と悶々とした。
実は、園長先生のみならず、長男を育てるなかで、これまで何度か同じようなことを言われた経験がある。そのあとに続く言葉は、
「周りの子が自然と優しくなれる」とか。
「○○くんのおかげでとってもいいクラスになった」とか。
みんな、一種の褒め言葉というか、ポジティブな意味合いで発しておられたのだと思う。
「そう言ってもらえてありがたいな。幸運なことだなぁ」と思ったこともあるので、言われた相手や立場、ちょっとしたニュアンスの違い、あるいはこちらの心境によって、ムッとしたり、うれしかったり、360度違った気持ちになる不思議な言葉だと思う。
他方、同じ土俵で語っていいのかわからないけれど、我が家が普通級を希望した理由の一つに健常児からの刺激を受けてほしいというのがある。
これだって、健常児の親からすると「うちの子はダウン症のある子の教材じゃないんだけど」となるかもしれない。
共生社会、と一口に言っても希望も感じ方も色々だ。だから考えるほどに難しいなぁと思う。「難しい」のは単純に面倒くさいと思うので、もっとシンプルに、フラットになりたいといつも思う。
こういう立場の違いによる感覚の違いに「正解」とかはたぶんなくて、それぞれ違ってそれでいいのだと思う。
また、まとまりのない文章になってしまった。
ただただ、いろんな人がいることが「当たり前」で、みんなが「当然」に幸せに暮らせる社会希望。