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銀河フェニックス物語【出会い編】 第十一話 S1を制す者は星空を制す②
第一話のスタート版
S1を制す者は星空を制す①
レイターはわたしの警護というよりエースの警備陣営に組み込まれていたのだ。
何も知らされていなかった自分が悔しい。
クリスさんが提案した。
「明日、サーキットで行われるCM撮影のことですが、レース後まで延期してもらえませんでしょうか?」
レース前日の明日、プラッタをスタート地点の滑走路へと移動する。
それに合わせて、エースがプラッタの横に立ってコマーシャル用の映像を撮る手筈になっていた。
「明日から観客スタンドには一般客の入場が始まります。手荷物検査はしますが狙おうと思ったら三百六十度どこからでも狙えます。我々にも防ぎようが無いんですよ」
クリスさんが言っていることはもっともだ。
スタートとゴールを兼ねる滑走路。それを挟む観客席には八万人が収容できる。
「やむを得んな」
メロン監督もうなずいている
わたしは手帳を検索して広報のスケジュールを確認した。
撮影をS1プライムの後に回してもCM制作には間に合う。
わたしは発言した。
「三日程度でしたら撮影が遅れても大丈夫です」
「それはできない」
エースが即座に反対した。
ドキッとした。
憧れのエースに否定されると気持ちがへこみそうになる。
「時間の問題じゃない。時期の問題だ」
エースの言っている意味がわからない。
その場にいる全員がエースの次の言葉を待った。
「・・・だから、レースで僕が勝つかどうか、わからないじゃないか。S1プライムで負けた後に一体どういうCMを撮るんだい?」
エースは机の上を指でトントンと叩きながら一言一言を選ぶようにして話した。
無敗の貴公子が負ける。
想像もしていない言葉だった。
今、エースは予選でトップに立っている。ポールポジションでの撮影は彼にもプラッタにもふさわしい。
だけど、もし負けたら・・・。
エースはどんな表情をカメラの前で見せればいいのだろう。
プラッタはエースの記録に傷をつけた船として名を残すことになり、売上にも影響する。
エースが抱えているプレッシャーの大きさを初めて知った。
彼はレーサーであると同時に広告塔であり経営者でもあった。
彼の判断には従わなくてはならない。
「僕は全ての仕事を最高の状態でやっていきたいんだ。悔いのないように」
エースはポールポジションで、王者としてコマーシャルに出なくてはならないのだ。命に変えても。
エースの強い思いは、わたしの心に響いた。
わたしだけじゃない、そこにいた社員全員に伝わる。
それまで黙っていたレイターがふらりと立ち上がると警備担当のクリスさんを見た。
「クリス。俺は部外者だが、ご依頼人様がやりてぇって言うならやるしか無ぇんじゃねぇの」
そしてレイターは自分の手のひらをエースの目の前五センチあたりにかざした。
意味不明のポーズをとりながらエースの目をにらんで言った。
「あんたが襲われたいのは勝手だが、守るほうは命がけだってこと忘れんなよ」
エースは口を真一文字に結んでうなずいた。
* *
夕陽がサーキットを照らしている。
S1プライムのために新築された建造物。明日からここは観客であふれる。
レイターは観客席のスタンドから滑走路を見下ろしていた。
スターティング・グリッドにはS1機の駐機場所を示す白いラインが描かれている。
ポールポジションのエースのプラッタが駐機する場所はあそこか。
T・Tと黒蛇の会話を思いだす。
『エースがスターティング・グリッドに出てきたところを狙う』
スタンドからの距離を確認する。
RP12の軽いレーザー。
その射程距離内で一発で仕留められる場所。
そして、逃走のための退路を確保できるポイント。
『これまでに俺が失敗したことがあったか』
経験に裏打ちされた自信のある声だった。
あいつは上等なプロの殺し屋だ。
とはいえ、俺もプロのボディーガードだからな。
さて、T・T、あんたはどこからどうくる?
* *
夜が明けると同時にサーキットへ一般客の入場が始まった。
夏の日差しは朝から容赦なく滑走路を照りつけている。
各社が売り出す新型宇宙船が一機、また一機ピットから出てきた。
日焼けを気にしながらティリーはピットの前で見ていた。
スターティング・グリッドまでS1機はゆっくりと車輪で移動する。
予選を二位で通過したギーラル社の新型ライバル船マウグルアが出てきた。
観客席のスタンドから歓声が上がる。
ギーラルの船には根強いファンがいる。
プラッタと同じくこのS1プライムに合わせて発表されたマウグルアは、結構デザインがしゃれている。
うちのプラッタとは性能も購買層もどれをとっても競合している。
実際のところ、この二つの船の能力に大きな差があるとは思えない。
ほんの少しのコンセプトの差やイメージ戦略が売上を左右する。
プラッタが出てきた。
エースが操縦し先頭のポールポジションへと向かう。
観客の視線が一斉に無敗の貴公子に集まる。
プラッタはエースが持つ「王者」のイメージを前面に打ち出している。
エースは負けるわけにはいかないのだ。
* *
「エースが出てきたか」
レイターは観客席に腰掛けていた。
Tシャツに薄手のヨットパーカー。
チーム名のロゴが入ったキャップにサングラス。右手には会場に入るとき配られたルト星の国旗。
どこから見ても典型的なS1ファンという格好だ。
俺ならこの辺りから狙う。
おそらくT・Tあんたも近くにいるはずだ。
このお祭り騒ぎのひとコマを演じながら、タイミングを探っているんだろう。
サングラスは三百六十度見渡せる特殊なメガネ。後ろの席も警戒する。
RP12じゃプラッタのフードは貫通しねぇ。
操縦席からエースが降りる時、T・Tは動く。
* *
スターティング・グリッドに停めたプラッタの周りにCM撮影用のカメラがセットされた。
現場はいつもとは違う緊張感が張り詰めていた。
プラッタのすぐ横で銀総のクリスの巨体が見張っている。
ティリーはイライラしながら何度もピットの奥のドアに目をやった。
もう、エースが船から降りるというのに共演するジェニファーの姿が無い。
「困るんだよね」
銀河警察のヒル警部が、怖い顔でわたしをにらんだ。エースの警備計画は秒単位で練られている。
「は、はい、すぐ探してきます」
わたしはピットの奥へと走った。
* *
プラッタの操縦席が開いた。
レーシングスーツに身を包んだエースが笑顔で手を振りながら立ち上がる。
スタンドから歓声が沸き起こり、小旗が一斉に降られた。
レイターも右手に持ったルト星旗を振る。
さあ、エースがスターティング・グリッドに出てきたぜ。
T・Tよ、お仕事の時間だ。
レイターは全身の感覚を研ぎ澄ませた。
皇宮警備の授業を思い出す。
群衆の中から不審者を探し出す訓練。
T・Tはプロだ。見てすぐわかるような動きはしねぇだろう。
集中する。
この周辺のどこかに小さな違和感がある筈だ。
小旗のノイズがうぜぇ。
どこだ?
騒がしさの中、空気の違いを読み取る。
直感の世界。これが結構当たる。
エースに向けた意識的な動き。
通路をはさんで四段後ろにいる男が携帯カメラを両手で構えた。
ピントを合わせる訓練された動き。
微妙な違和感。
あいつだ!
携帯カメラを改造した銃だ。動きがピタリと止まる。
やべぇ。
照準が定まったか。
* *
ピットの裏にあるパドックをティリーは走っていた。
化粧室からドライヤーの音がする。
中へ入るとジェニファーは悠々と髪を整えていた。まったくどういうつもりなのか。
「早くして下さい。時間です」
鏡に映るわたしの顔をちらりと見るけれど腰を上げる気配はない。
ドライヤーを止めると今度は前髪一本の乱れも許さない、という勢いでスプレーをあてはじめた。
「みんな待ってるんです。もういいでしょ」
「私はねぇ、ベストな状態で仕事に臨みたいのよ。あなただってエースに恥をかかせたくないでしょ」
そんなことを言っている場合じゃない。
素早く撮影を終えなければエースの命に関わるのだ。叫びたい気持ちを胸の中に飲み込む。
ジェニファーたちはエースの命が狙われていることを何も知らされていない。
撮影のセッティングに時間がかかると踏んで悠長に構えている。
でも、きょうはいつもとは違う。
「きょうは撮影準備を短くするようにお願いしてあるんです」
ジェニファーは横目でわたしを見た。
「プロのメイクさんをつけてくれればもっと早く終わるわ。本社に要望して頂戴」
「ジェニファー。あなた十分きれいよ、だからもう行きましょう」
機嫌を取っている自分が鏡に映っていた。
情けない顔をしている。
ジェニファーが手を伸ばしてわたしの髪をつまんだ。
「あなた、安物のシャンプー使ってるんでしょ。手を抜いてるのね」
ドキッとした。
鏡の前にズラリと並んでいるジェニファーのヘアスタイリング剤に目がいく。
オイルにワックス、ムースにスプレー。前髪用、ウエーブ用、セット用、ツヤ出し用、覚えられないほど細かく分かれている。
銀色のロゴは女性誌で取り上げられる有名美容室のものだった。
あの小さな一本でわたしが使っているプチプラのスタイリング剤が何本買えるのだろうか。
「私はエースのために努力してるの。あなたの指図は受けないわ」
不愉快。
怒りが込み上げてくる。
でも、怒ってもジェニファーは動かない。
感情を必死に押さえ込んで明るく口にした。
「エースがあなたを待っているわよ。ここはわたしが片付けておくから」
「あらそう。じゃ、お願いね」
ジェニファーは勝ち誇ったような顔をして外へ出ていった。
ため息がでる。
スタイリング剤の一つ一つにふたをかぶせ、一本一本化粧ポーチに片付ける。
何しているんだろうわたしは・・・。
ジェニファーはこれからエースにエスコートされてプラッタの助手席に座る。
わたしのエースの隣で笑顔を見せる。
それがジェニファーの仕事だ。
握り締めたスタイリング剤を鏡に投げ付けたい衝動に駆られた。
涙がこぼれそうだ。
* *
スターティング・グリッド。
そのポールポジションにプラッタが停まりフードが開いた。
無敗の貴公子が立ち上がる。
歓声が上がり、観客が一斉に小旗を振る。
スタンドに座っていたT・Tは一般客のふりをしてカメラ型改造銃を構えた。
エースはゆっくりと向きを変え、すべての観客に向けて手を振っている。
まもなくこちらへ顔を向ける。
この距離と角度、ベストポジションだ。
エースの眉間を照準器が捉えた。
一発で仕留める。
引き金となるシャッターに手をかけた。
と、
タンッツ。
右手に軽い衝撃が走った。
照準がずれた。
何だ? 何かがT・Tの手をはじいた。
ルト星の小旗だ。
どこから飛んできた?
迷ったのは一瞬だった。
すぐさま立ち上がる。失敗だ。
逃走用に確保しておいた通路の階段を駆けのぼる。
*
「クリス、南6番でT・T発見」
レイターは無線で警備本部に連絡を入れた。
「了解。南E班。6番区域で不審人物逃走中。繰り返す、南6番だ」
銀総の警備員が一斉に走り出す。
T・Tを追いかけるレイターの前に警備員が立ちふさがった。
「君、止まりたまえ」
「馬鹿野郎! 俺、捕まえてどうすんだ。あいつだ」
レイターが指をさす。
T・Tは最上階へ辿り着くところだった。
かかとの部分が青く光った。
「あいつブースターブーツで屋上から飛び降りるつもりか」
このままでは逃げられる。
と、その時、T・Tがバランスをくずして倒れた。
最上階にいた男とぶつかった。
「すいません。大丈夫ですか?」
T・Tの前にS1チームのキャップをかぶった男が立っていた。観客か。
T・Tは焦った。
この時間、最上階には誰もいないはずだった。
「邪魔だ!」
T・Tは観客を突き飛ばして飛び降りようとした。
だが、どういう訳かぶつかった相手の身体が動かない。
「待ちやがれ!」
追いかけてきたレイターがT・Tに飛び掛かった。
T・Tは振り向きながら手にしていたカメラ型改造銃をレイターの眉間に向ける。
引き金のシャッターを押す。
ビュンッツ
T・Tとぶつかった客がカメラ銃をはたいた。
発射されたレーザー弾の軌道がわずかにそれる。レイターのパーカーのフードが焦げる。
一瞬の出来事だった。
T・Tに馬乗りになったレイターが手錠をかけた。
「T・Tを確保した」
警備員と一緒にT・Tを押さえ込みながら、レイターはT・Tにぶつかった観客に礼を言った。
「ご協力、感謝します」
「どういたしまして」
その声にギョっとしてレイターが顔をあげる。
涼しい顔をしてアーサーが立っていた。
* *
ティリーは化粧室でため息をついた。
エースとジェニファーが並んで映像を撮っているところへなんて戻りたくない。
二人が一緒の撮影は何分までだっけ。
まだ、続いてるよね。
けど、仕事だ。
エースの命が狙われているのだ。あまり現場から離れているわけにもいかない。
そろそろ行こう。
気の進まないままジェニファーのポーチを持って化粧室を出る。
隣の男性化粧室へ背の高い人が入っていった。
廊下へ出て三歩歩いてから、不審に思って足を止めた。
今、トイレに入った男性は一般の観客だった。
どうしてここに一般人がいるのだろう。
関係者以外立入禁止区域なのに。
しかも、きょうは「蟻一匹いれない」とクリスさんが豪語する程、厳重なチェック体制なのだ。
観客席から間違って入ってくることはあり得ない。
とすると、ここにいるのは一体何者?
エースの暗殺者が一般人を装って入ってきたんじゃ・・・。
自分の想像が怖くなると同時に、胸の鼓動が早鐘のように打ち始めた。
早く誰かに知らせなくちゃ。
駆け出そうとした時、化粧室からキャップをかぶった不審者が出てきた。
間に合わない! どうしよう?
無我夢中で手にしたヘアスプレーを男の顔面に吹き掛けた。男が目を押さえてひるむ。
どうせジェニファーのスプレーよ。
「えい、えいっ」
噴出ボタンを親の敵と言わんばかりに何度も押す。
「お、おい、ティリーさん、ちょっと待て」
その声に聞き覚えがあった。
「レイター!!」
パーカーにTシャツ、しかも、キャップをかぶっていたから気づかなかった。
「くそっ。信じらんねぇ」
怒った顔のレイターが立っていた。
「どうしてそんな格好してるのよ? 不審者だと思ったじゃない。ご、ごめんなさい」
わたしはあわてて頭を下げた。
「あんたが謝ることはねぇ。ティリーさんの行動が読めなかった。自分に腹立ててんだ」
目が真っ赤に充血している。
「それにしても、あんた。他人の顔より自分の髪にトリートメントした方がいいんじゃねぇの」
そう言ってにやりと笑った。
レイターの言葉は思い出したくないジェニファーとのやりとりを思い出させた。
「よ、よけいなお世話よ!!」
わたしはくるりとレイターに背を向けると撮影現場へ急ぎ足で向かった。
何なの、あの格好。
自分だけS1満喫しちゃって、腹が立つ。
*
サーキットのスターティング・グリッドではCMの撮影が順調に進んでいた。
どうしたんだろう、さっきと打って変わって緊張感がない。
警備会社のクリスさんがニコニコしながらわたしに教えてくれた。
「レイターが黒蛇を捕まえたんだよ」
「え? いつの間に」
「あいつ、スタンドで張り込んでたんだ」
それで、あんな格好していたんだ。
レイターの腕がいいことだけは確かだ。ヘアスプレーをかけたりして悪いことをした。
二人の撮影は続いていた。
わたしの憧れのエースの横には営業用とも本気ともとれる笑顔を見せてジェニファーが立っていた。
さらさらのストレートをかき上げる。
「きれいだよジェニファー」
撮影スタッフの男性たちはうれしそうに仕事をしている。
エースも笑っている。
無機質な新型船プラッタに華を添える。
ジェニファーは司会やナレーションもうまい。仕事の上では文句のつけようが無い。
エースはジェニファーのことをどう思っているのだろう。やっぱり美人で色っぽい人が好きなのだろうか。
ジェニファーとの会話がよみがえる。「あなた、手を抜いているのね」って図星だ。
だから腹が立ったんだ。
エースの撮影が終わるのを待ちながら、こっそりと通信機を手にした。
コスメの通販ページを開く。
わたしだって、わたしだってエースのためにきれいになるんだから。
* *
『黒蛇会のスナイパー、T・Tことトト・テオドール容疑者がS1プライムの警備にあたっていた警備員によって取りおさえられました』
控え室で夜食のサンドイッチを食べながらレイターとテレビを見ていた。取り押さえた警備員というのはレイターのことだ。
どこのチャンネルも黒蛇会摘発のニュースを報じている。
S1招致のためにマフィア根絶をうたったこの星にとっては大きなニュースらしい。
「黒蛇会がエースを狙ってたことは放送されないのね。証拠がないってヒル警部が言っていたけれど」
ヒル警部はミラーボールの遠隔装置が見つかれば立件できるとわたしたちに説明した。
「そりゃ、ルト星政府はイメージを落としたくないのさ。S1賭博なんて話が出たら二度と誘致できねぇからな」
大ごとにならないのはうちの会社にとっても有難いのだけど、釈然としない。
大柄な警備会社のクリスさんが部屋に入ってきた。
「きょうはお疲れさま。お手柄、お手柄」
そう言いながらレイターの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「やめろ!」
むっとした顔でレイターが振り払う。
思わずわたしは吹き出してしまった。クリスさんは完全にレイターを子供扱いしている。
「それにしても、見れば見るほど似ているなあ」
クリスさんはわたしの顔をじっと見た。
「ほら、なんて言ったっけ。レイター。お前の愛しの・・・」
「あんた。早く警備に戻れ」
レイターが立ち上がって言葉を遮る。
ピンときた。『愛しの君』のことだ。レイターの片思いの人。
時々わたしは似ていると言われるけれど、当人の顔を見たことは無い。
「はいはい、チビ殿」
「ぶっ殺すぞ、カバ野郎」
「明日はいよいよレースだ。よろしくな」
クリスさんが笑いながら部屋を出ていった。
いつもわたしのことをガキ呼ばわりするレイターが子ども扱いされているのは痛快だ。
「レイター、クリスさんのこと苦手でしょ?」
「うるせぇ。俺は人を見上げて話すのが嫌れぇなんだ」
*
そして、S1プライムはレース本番を迎えた。
さあ、がんばろう。
ティリーはサーキットで空を見上げた。
青空が広がる絶好のレース日和。
天気予報によると結構気温があがりそうだ。
とにかく黒蛇はもう来ない。本来の仕事であるレースに集中すればいいのだ。
とは言え、わたしにできることは少ない。レースが始まってしまえば無敗の貴公子を応援するしかない。
*
ミニスカートを履いたジェニファーがミネラルウォーターのボトルを持って控え室に入ってきた。
「お水をお持ちしましたわ」
エースはピットの奥の部屋で精神集中している。
エースはS1機に乗る前にミネラルウオーターを飲むのがルーティンだ。
「いやあ、のど乾いてたんだ。サンキュー」
ドアの横にいたレイターが彼女の持ってきたボトルをとりあげた。
「ちょっとレイター。それはエースのよ」
わたしの声を無視して飲み始める。
そして、次にレイターがとった行動はわたしの理解を超えていた。
いきなり、横にいるジェニファーのあごに手をかけて引き寄せると、真っ赤なビロードの唇に唇を重ねた。
濃厚なキス。
あわてて目をそらす。
強烈な不快感に襲われた。
「ごちそっさま」
突然のことで凍り付いた人形のようになっていたジェニファーが、目を大きく見開くと拳骨でレイターの胸を叩いて泣きだした。
「ひ、ひどい・・・強引だわ、いやあぁ」
相手が他の女性だったらレイターに抗議したと思う。
いきなりキスするなんて許せない。
だけどどうして、色仕掛けの固まりみたいなジェニファーがキス一つでこんなに大騒ぎするわけ。
この人そんなに純情だったの。
黒蛇会が捕まり緊張感から開放されたのはわかる。でも、今はレース前のエースが大事な時間。イライラしてきた。
「痴話喧嘩は外でやって!」
二人を追い出そうとドアを開けると、ヒル警部が血相を変えて入ってきた。
「エース、水を飲むな!!」
「えっ?」
意味がわからずヒル警部をみんなが見つめる。
「飲み水に薬物を入れる計画が進行中だ。今、黒蛇が吐いたと本部から連絡が入った」
その瞬間、ジェニファーが部屋から飛び出そうとした。
が、レイターがその腕をしっかりとつかんでいる。
「あんた、逃げるより警察に協力したほうがいいぜ。水を飲んだのはエースじゃなくてあんたなんだから。さて、どんなお薬だったのかな?」
ジェニファーは糸の切れた操り人形の様に力が抜け、床へぺたりと座り込んだ。
「集中力が高まる薬だって言われたの。この薬をまぜたら、次の仕事を紹介してくれるって」
泣きじゃくりながら小さな壜を差し出した。
ジェニファーは突然のキスに抗議していたのではなく、自分が薬物を混入した水を口移しで飲まされたためパニックに陥っていたのだ。
集中力を高める薬というのが嘘だと気づいていたのだろう。
駆けつけた警察官にジェニファーは連行されていった。
病院へ連れていかれるという。
ヒル警部がその場で薬物の簡易鑑定をした。
「睡眠導入剤だ」
危なかった。
エースが居眠り操縦をして事故を起こすところだった。
ヒル警部がレイターにたずねた。
「どうして彼女の動きがわかったんだ」
「んぱ」
レイターはとぼけた顔をしながら心の中でつぶやいた。
警察無線を盗聴してますとは言えねぇわな。
*
さあ、いよいよだ。
ティリーはサーキットに設置された大型ビジョンを凝視していた。
毎年S1プライムはテレビで見ていたけれど、ピットから見ることができるなんて信じられない。
エースがプラッタに乗り込んだ。
フルフェイスのヘルメットで表情は見えないけれど、いつも通り人差し指を立てた。ナンバーワンのポーズ。
アップでに大写しされる。
ああ、わたしの推しは、抜群に格好いい。
スタートの赤いシグナルが消える。
S1機が滑走路から一斉に飛び出した。
スタート時は緊張する。思わず手を握る。
ポールポジションのエースは一気に加速しトップのまま青空へと浮上した。
ここ惑星ルトワンから第一チェックポイントのルトツーへ向かう。
よし。出だしから快調だ。
*
S1プライムは通常のS1とは違う、リレー形式だ。
ルト星系の三つの惑星、ルトワン、ルトツー、ルトスリーを結び再びルトワンに戻る飛行時間約ニ十分のコース。それを三周する。
第一走者のエースが一周してルトワンに戻ると、第二走者のプラッタ二号機がスタートし同じルートを飛ぶことになっている。
そして、二号機が戻ってきたら、もう一度、最終走者のエースが飛び出す。
*
サーキットの大型ビジョンは宇宙空間を快調に飛ばすエースのプラッタを映している。
ティリーはその中継映像をじっと見つめていた。
若い男性アナウンサーの実況が響く。
『無敗の貴公子は一つ目のチェックポイントであるルトツーへの着陸態勢に入りました』
隣の年配の解説者が落ち着いた声で伝える。
『いいペースだね。ここルトツーのチェックポイントは見せ場だよ』
ルトツーは大気が薄い。
硬化ガラスで覆われたルトツーの観客スタンドでは五万人のS1ファンが滑走路を見守っている。
滑走路にS1機の車輪が触れなければならない。
エースのS1機が降下。
一瞬減速して着陸と同時に浮上。
S1プライムの醍醐味、タッチアンドゴー。
観客が歓声を上げる。
『さすがエースです。素晴らしいタッチアンドゴーだ。トップで第一チェックポイント通過』
『ふむ、華麗なテクニックで離陸したね。二位のマウグルアを少し引き離したようだよ』
ライバル船のマウグルアも悪くない。
でも、エースというブランドイメージの大きな力をあらためて感じる。
惑星ルトスリーの衛星軌道上に設置された三次元チェックポイントを通過。
その後の小惑星帯も安定したスピードだ。
通信が途切れるアクセス反射圏も三分を切ってエースは抜けてきた。
*
エースは二位を寄せ付けず、ルトワンの滑走路へ着陸。
同時に第二パイロットのプラッタ二号機が発進した。
一周十八分台。かなりいいペースだ。
エースがピットインした。
プラッタ一号機にエネルギー補給を行い、設定を微調整する。
わたしは急いで控え室に入った。
ジェニファーがいなくなり、わたしがエースにミネラルウォーターを届けることになったのだ。
「封が切ってなければ大丈夫よね?」
冷蔵庫から取り出しながらレイターに聞いてみる。
「心配だったら俺がティリーさんに飲ませてやろうか」
レイターがにやりと笑った。
「結構です」
ジェニファーとのキスシーンが頭に浮かんだ。
あれは仕事だったのだ、と頭でわかっているのに、気分が苛立ってきた。
カチャッとパドック側のドアが開いた。
え?
レーシングスーツを着た男性が崩れ落ちるように倒れこんできた。
「キャアアアァ」
エ、エースだ。
レイターがエースの体を支える。思わず息が止まった。
わたしの悲鳴を聞きつけチームメイトが駆け付ける。
「・・・トイレで、襲われた」
エースの左腕が力なくだらりと垂れ下がった。
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