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銀河フェニックス物語<少年編>第九話(最終回)「金曜日はカレーの日」
アーサーは自分は暗号通信士にはなれない、と苦しそうな顔でヌイに伝えた。
銀河フェニックス物語 総目次
<少年編>「金曜はカレーの日」 (1)(2)(3)(4)(5)(6)
<少年編>マガジン
坊ちゃんは目で見たものをそのまま記憶して再現することができる。一方で、耳から入ってくる情報は思うように扱えないのだと言う。
「レイターの様に耳で聞いた音を当てるとか、楽譜をそのまま音にすることが僕にはとても難しくて」
「絶対音感を得るには幼少期のトレーニングが必要だからね。でも、相対音感なら今からでも身に着けることはできるよ」
将軍家に音楽は必要ない。坊ちゃんはこれまで楽器の演奏や、歌を歌うという経験がほとんど無いのだと言う。音楽に対してコンプレックスがあるようだ。
「アーサーは、歌は歌えるかい?」
「連邦軍歌なら」
「歌ってみてよ」
「ここで、ですか?」
と驚いて目を見開いた様子は、普通の十二歳の少年だった。
「誰もいないから大丈夫だよ」
彼はカレーのスプーンを置くと少し照れながら軍歌の初めのフレーズを小さな声で口ずさんだ。
低くていい声だ。音程も外れていない。音痴と言う訳じゃ無い。
簡単に言うと、演奏を習ったことのない普通の人と同じなのだ。逆にこれでよく、音階暗号譜の基本言語を習得できたなと感心する。「苦労した」と彼が言うのは相当に努力したのだろう。
「全く問題ないよ。相対音感を磨いて音階暗号符を解けるようになった人はいるから、無理というわけじゃないと思う」
坊ちゃんは深いため息をついた。
「どうしてレイターは音階暗号符が解けるのでしょうか?」
珍しい。表情を表に出さない彼がいらだっているのがわかる。
「まあ、レイターには絶対音感があるからね」
坊ちゃんはレイターに出来て、自分に出来ないことに焦りがあるようだ。
僕が軍へ入隊する前、五年以上前に見たテレビの番組を思い出した。
様々な分野の教授陣と議論を戦わせる七歳の将軍家の跡取り。
歴史でも数学でも淡々と澱みなく論破していく幼い姿に驚くとともに、どこかで安心した。
さすが将軍家だ。
『見えない戦争』に連邦軍が負ける筈はないと。
その期待に応えながらアーサーは生きている。
体格にも運動神経にも恵まれた彼は、十二歳ながら士官学校を首席で卒業した。
何事も人並み以上にできてしまうアーサーにとって、よもや、自分と同い年の少年に負けるということはあり得ないのだろう。屈辱的な出来事なのかもしれない。
天才少年であるが故の経験値の低さ。
「レイターは特別だよ」
「特別?」
「うん、特別ムーサに愛されている」
「ムーサ? 音楽の女神ですか?」
「そう。プロだった僕でもかなわないぐらいに。悔しいけれど、自分が得意な分野でだって他人よりできないことがあるのは当たり前だよ」
「当たり前、ですか」
次期将軍は僕らとは違う世界を生きている。でも、僕らの世界と交わらない訳にもいかない。
「そうさ。レイターの母親は、彼の中に音楽の種を植えて丁寧に育てていた。絶対音感もそう。音楽で食べていけるという選択肢、生きていく力を授けたんだ」
「生きていく力……」
「なのに、レイターは音楽の道へ進む気がまるでないんだよ。ほんと、もったいないよなぁ」
「彼は『銀河一の操縦士』になるのが夢ですから」
「あの執着はすごいよね。アーサーに夢はあるの?」
と聞いてから馬鹿なことを口にしたと思った。坊ちゃんには決められた道しかない。
「世界平和に貢献できればと思っています」
ごく自然に彼は答えた。
それが当たり前だ、世の中の真理だ、とでも言うように。
十二歳の高尚な夢。
坊ちゃんは、それを心からやりたい、自らの夢だと思っているのだろうか。
浮かび上がる違和感とともにチキンカレーを口に運ぶ。香辛料の香りが鼻から抜けていく。
ターメリック、コリアンダー、ガラムマサラ、クミン、カイエンペッパー、エトセトラエトセトラ……刺激あるスパイスが混ざり合って一つのカレーが出来上がる。
レイターの夢は単純だ。
本心。
素材そのものの味しかしない。
一方で、坊ちゃんの夢は複雑だ。
建前、思惑、期待、義務感、世間体、エトセトラエトセトラが複雑に融合して形作られている。
もはや、アーサー本人でも嗅ぎ分けられないのではないだろうか。素材である本心を覆い隠すスパイシーな香りが、坊ちゃんから匂い立っていた。
(おしまい) 第十話「二段ベッドの上で見る夢」へ続く
<出会い編>第一話「永世中立星の叛乱」→物語のスタート版
イラストのマガジン
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