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銀河フェニックス物語 【出会い編】第三十四話 愛しい人のための船(まとめ読み版)
・第一話のスタート版
・銀河フェニックス物語 総目次
・第三十三話「宇宙に花火がうち上がる」① ② ③
家の近くで、久しぶりにティリーを見かけた。
SSショーの長期出張からきょう帰ってきたはずだ。フェル兄の船で。
何だか様子が変だ。おぼつかない足取り。
「ティリー、久しぶり。どうしたの? ぼーっとして」
軽く肩をたたいた。
「ベル」
ティリーの顔を見て驚いた。
目が真っ赤だ。もともと赤い瞳な上に白目も赤い。泣いてたんだ。
手みやげを持っていた。
自分で食べるためのものじゃない。ちょっと高級な洋菓子店の包み。
「どこか行くところ?」
ティリーは首を横に振った。
「じゃあ、うちへ寄ってかない?」
とりあえず誘う。ティリーは小さくうなずいた。
誘ってから、家が散らかっていたことを思い出す。ま、いいや、ティリーだし。
*
「座ってて、コーヒー煎れるから」
ティリーはわたしの言うとおりにダイニングの椅子に座った。心ここにあらずといった感じだ。
どうしたの? って聞いた方がいいんだろうか? それとも話すまで待つか?
コーヒーを煎れている間考えてみたけれど答えは出なかった。とにかくテーブルの上を片付ける。
「うん、いい香り」
わたしはカップをティリーの前に置いた。
ティリーは何も言わずに洋菓子の箱を開けた。
中に入っていたのはプリンだった。
どこへ行こうとしたのか察しがついた。
フェニックス号だ。プリンはレイターの大好物。
SSショーで何かあったんだ。
通信でフェル兄が「面倒で複雑な状態」と言っていたことを思い出した。
プリンを一口食べる。
「おいしいじゃん」
明るく言うと、ティリーがぽつりとつぶやいた。
「フェニックス号に、入れてもらえなかった」
「ん?」
「マザーが許可してくれなかった」
「レイターがいなかったの?」
ティリーが首を横に振った。
「レイターがわたしに会いたくないって、マザーが言ってた。フェニックス号に拒絶されたの初めてで、ちょっとショック」
正しく言うと、フェニックス号に、ではなくレイターに、だと思うけれど、それは言わなかった。
「SSショーで何があったの?」
ティリーはビクっとしてわたしの顔を見た。
「フェルナンドさん、何か言ってた?」
「詳しいことは何も。ただ、面倒で複雑な状態になったって」
「面倒で複雑な状態・・・」
ティリーがわたしに話すかどうか躊躇している。こういう時は背中を押すに限る。
「何でも聞くよ」
そしてティリーはおもむろに口を開いた。
「エース専務から、おつきあいして欲しいって告白された」
ぶっ。
わたしは思わずコーヒーを吹き出した。
「ほんと?」
ティリーがうなずく。
「で、どうしたの?」
「どうもしてない」
「どうもしてないってどういうこと。エースってうちの会社の次期社長なんだから。こんな玉の輿ないわよ」
「結婚を申し込まれた訳じゃないわ」
「だって、ティリーはエースの大ファンじゃん」
と、ここまで口にして厄病神のレイターのことが頭に浮かんだ。
ふむ、これは面倒で複雑だ。
だって、レイターとティリーは友だち以上恋人未満の関係。
厄病神はティリーのこと何と言っていたっけ?
そうだ、「他の男とつきあって欲しくねぇ」だ。
そこへきて、告った専務はティリーの推しで、しかも条件の良いことといったらこの上ない。
わたしならお付き合いを断るなんて、もったいなくてできないよ。
微妙な三角関係。
わたしは聞かずにいられない。
「ティリーは専務とレイターのどっちを選ぶわけ? フェニックス号に出かけたのはレイターを選んだってこと?」
「選んだとかじゃなくて、ただ謝りたかったの。わたし、レイターに悪いことをしたから。でも会ってくれなかった。それに、レイターには彼女がいる、かも知れない」
「えええええっ?! どういうこと?」
そんなことは初耳だ。
「昔の彼女と寄りを戻したみたいなの」
は? 意味が分からない。
「レイターの前の彼女は死んでて、今でもその『愛しの君』を愛してるんでしょ」
驚いたことに、レイターは学生時代、将軍家の姫君と結婚前提のお付き合いをしていたのだ。
「その人とは別人」
またまたレイターの言葉を思い出す。「不特定多数の相手は得意だぜ」って。きっと、その中の一人だ。何やってんだかあの人は。
「もし、それが本当なら迷うことはないわ。ティリーは専務と付き合えばいいのよ」
それが本当ならね。
でも、ティリーは気付いているだろうか。どこからどう見ても、失恋直後にしか見えないことに。
レイターのことが好きだ。って顔に書いてあるよ。
* *
SSショーの出張伝票の精算をようやく終えた。
わたしたちアンタレス人は数字が得意だから苦手な作業ではないけれど、長期出張の処理は面倒だ。ほっと一息ついた時のことだった。
「ティリー君、部屋に来てくれ」
部長に呼ばれた。伝票が間違っていたのだろうか?
いや、部長の機嫌は悪くない。まずい話ではなさそうだ。それでも、部屋に呼ばれるのは緊張する。
わたしと向き合った部長は、にっと歯を見せた。
「いやあ、おめでとう。君の働きが認められたよ」
何のことだろうか。覚えがない。
「役員室への異動が決まった」
「え?」
「営業から君がいなくなるのは残念だが、役員室の引き抜きだ。SSショーで頑張ってくれたから、栄転だよ」
いきなりの内示に身体中が固まった。
「エース専務の担当秘書になるそうだ。君を推薦しておいてよかった」
専務の担当秘書・・・。
「あ、ありがとうございます」
わたしは笑顔をみせた。でも、こわばっているんじゃないかと心配になった。
「君はもともと『無敗の貴公子』の大ファンだっただろ、何だかうらやましいな」
部長はうれしそうにはしゃいでいる。
どういうことだろう。
専務がわたしに告白した、なんてことは部長も知らないはずだ。
エースが裏で手を回したのだろうか。いや、わたしの推しは公私混同するような人じゃない。落ち着かない。
営業成績が決していいわけじゃなかった。でも、お客様に近いこの仕事がわたしは好きだった。
そして、頭に浮かんだのは、もう厄病神と一緒にフェニックス号で仕事をすることはないのだ、ということだった。
マザーが淹れるコーヒーが無性に飲みたい。
* *
ベルはイラつきながらフェルナンドに連絡をいれた。わからないことが多すぎる。
人事異動だから仕方ないけれど、隣の席のティリーがいなくなるのは寂しい。
「フェル兄。専務がティリーに交際を申し込んだってどういうこと?」
「専務は本気だよ」
「どうしてわたしに教えてくれないのよ」
「ティリーさんが話すのは構わないけれど、僕には守秘義務がある」
「それで、役員室に引っ張るなんて、やり過ぎじゃん」
「う~ん、そこにも守秘義務が発生しているけれど、エース専務の名誉のために言っておくと、そこに私情は挟まれていないから、誤解しない方がいい」
そうなの? フェル兄が言うのなら、そうなんだろう。
「じゃあ、レイターに彼女がいる、っていうのはどういうことなの?」
「彼女? ああ、御台所の話か」
「何それ? ティリーは、レイターが昔の彼女と寄りを戻したんじゃないか、って言ってたけど」
「御台所は、僕好みの魅力的な女性らしいよ」
「え?」
僕好み、という言葉が脳みそに焼き付いた。
「レイターさんの気持ちが変わった訳じゃないけれど、状況にうまく対応できていない、という感じかな」
フェル兄の話は最後まで聞いていなかった。
通信を切るとすぐに検索をかけた。
フェル兄好みの魅力的な女性。『御台所』というワードはトレンド急上昇していた。裏将軍復活というのがキーワードらしい。落ち着かない。
動画で見る彼女は美しかった。
飛ばし屋の総会で、裏将軍復活を宣言する『御台所』の動画。かっこいいじゃん。嫌な感じ。
フェル兄はこういう人が好みなのか。
わたしと違って色っぽい人だ。気持ちが塞ぐ。
本名ヘレン・ベルベロッタ。プロの飛ばし屋。
『御台所』は裏将軍の正室。つまり彼女だと投稿されている。
で、この『裏将軍』というのがレイターということね。ティリーが前に言ってたな。レイターは有名な飛ばし屋だったって。
掲示板には『裏将軍』は地球人の男で、今は普通の社会人と書き込まれている。
普通の社会人? ちょっと違うわ。
検索に次々と引っかかってきたのは、SSショーの爆弾犯を『裏将軍』と『御台所』が二隻で追い込む映像だ。
これはすごかった。
あまりに危険な飛ばしだから、グラフィックソフトで作ったフェイク動画だという指摘が出ていたけれど、多数の人が一気にライブ投稿している。これは本物だ。
さすが、自称銀河一の操縦士。
検索を続ける。書き込みは六年前までさかのぼる。
伝説の飛ばし屋チーム、ギャラクシー・フェニックス。
背が低くて正体不明の『裏将軍』とスポークスマンの『御台所』に率いられた新興勢力が、あっという間に陣地を拡大して、銀河中の飛ばし屋を統一すると同時に解散。意味不明だわ。
「裏将軍の女、御台所に手を出すな。死ぬより怖い制裁が待っている」ってどういうこと?
あの女ったらしは『愛しの君』一筋じゃなかったの?
うーん、フェル兄がこの『御台所』のことが好みだとすると、レイターと御台所がくっついてくれた方が、わたしにとっては都合がいいということだろうか?
それで、ティリーと専務がつきあえば全てが丸く収まる。
* *
ティリーは本社最上階にある専務の部屋の前で大きく息を吸い込んだ。
ドアをノックする。
「どうぞ」
エースの声がした。フェルナンドさんが中からドアを開けてくれた。
エースの執務机の前に立って一礼をした。
「きょうからこちらに配属になりました。ティリー・マイルドです。よろしくお願いします」
椅子に座ったエースがいつものように素敵な笑顔をみせた。
「こちらこそ、よろしく」
エースはすぐに真面目な顔になった。
「ティリー、君に一つだけ言っておきたいことがある」
緊張して息を飲む。
「何でしょうか?」
「今回の人事、僕はタッチしていない」
つきあって欲しいと告白された直後の役員室への異動。エースがそんなことをするはずないと思いながらも、気持ちはもやもやしていた。
「会社の総合的な判断で君の名前が挙がってきた。僕としては拒否する理由がないから承認した」
会社の総合的な判断、とは随分大げさだ。部長が推薦したとは聞いたけれど。
「君には主にS1関連を担当してもらう。社内外の連絡調整に当たって欲しい。結構大変だよ」
わたしは去年のS1プライムでエースの付き人を勤めた。
表に出せない裏の事情まで知ることになった。それで適任だと判断されたということか。
「それから、これはまだ極秘だけれど、今シーズンのレースで僕は引退する。経営の仕事が忙しくなってきたからね、軸足をそちらへシフトさせることにした」
「え?」
今、何て言った?
『無敗の貴公子』が引退?
わたしの推しが卒業する・・・。
「僕の花道をしっかりと作って欲しい。よろしく頼むよ」
「は、はい、わかりました」
と返事はしたものの、現実感がない。
まさか、この間バトルでレイターに負けたから?
いや、違う。思い出した。
エースは去年のS1プライムの時、すでに『無敗の貴公子』をやめたいと考えていたのだ。
そのあともエースはS1で勝ち続けている。
無敗のまま、終わりにしたい、というエースの気持ちは痛いほどわかる。
それにしてもエースの引退が発表になったら、これは大変だ。
女性のS1ファンの多くはわたしと同じように『無敗の貴公子』のファンなのだ。これはもう普通のS1グランプリじゃない。
会社の総合的判断。
仕事に女性ファンとしてのわたしの視点が求められているということだ。重圧を突然意識した。
エースはわたしの目を見つめて言った。
「今シーズンのS1が終わったら、ティリーの気持ちを聞かせて欲しい」
わたしの気持ち。
エースとつきあうかどうかを聞かれているのだ、と理解するまでに少し時間がかかった。
*
仕事は想像以上に忙しかった。
専務のスケジューリングは大変だ。
相手も多忙な大物が多い。限られた時間の隙間を縫うようにしてピースをはめ込みパズルを完成させる。できた、と喜んだところへ別の大きな案件が降ってきて一から作り直し。
専務の父である社長の体調がすぐれず、エースが代行する仕事が増えていた。
さらに、レースのためのトレーニングの時間をきちんと作らなくてはならない。
専務に合わせて仕事をすると、みるみる労働時間が増えた。とはいえ、どんなに大変でも、推しのためなら苦しみすら喜びだ。
エースの大変さと能力の高さをリアルに感じて、惚れ直してしまう。
毎日、顔を合わせるけれど、エースがわたしにプライベートな話をすることはなかった。
今シーズンのS1を全勝で終わらせる。その目標にわたしたちは懸けていた。
*
そんなある日のこと。
「ティリー、受付から連絡が入ってます」
内線が回ってきた。きょうは専務が社外に出ていて、少々のんびりしていた。
「正面受付にベルベロッタさまがいらしています」
ベルベロッタさん? 来客の予定は無いのだけれど。
カメラが切り替わる。サングラスをかけビジネススーツに身を包んだた女性が映し出された。美しい顔立ち。
誰だろう、覚えが無い。飛び込みの営業だろうか。
女性がサングラスをはずした。琥珀色の瞳に思わず息を飲む。
女性が落ち着いた声で名乗った。
「ヘレン・ベルベロッタです」
裏将軍の正妻『御台所』のヘレンさんだ。どうしてここへ?
深紅のレーシングスーツで啖呵を切る『御台所』の動画は何回も見た。今、目の前で静かにスーツを着こなした人物はまるで別人だ。
フェニックス号で直接会った時とも印象が違う。
どこから見てもビジネスで訪問したという格好。
時計を見る。十一時半。昼休みまであと三十分。どうしよう。
保留ボタンを押す。「そのままお待ちください」と先方に機械音が伝わっているはずだ。
「すみません、わたし外にでます」
わたしは財布を持って職場を離れた。
「ごめんなさい、突然お邪魔して」
ヘレンさんは受付で目を引いていた。
スラリ背が高く背筋の伸びたその姿は、ファッションショーから抜け出してきたモデルのようだ。
「五年前の会社勤めのころ買ったものだから、ちょっと流行遅れよね」
言われてみれば少しデザインが古い。
でも、そんなことをまるで感じさせない。
「これでもトップセールスとったことあるのよ」
ヘレンさんが笑うと、とてもチャーミングだった。
会社勤めをしていた、というのは嘘じゃないのだろう、仕事ができる女性、というオーラが漂っている。
一芸に秀でた人、というのは何をやってもできるのだ。
わたしがきょう着ているのは、役員室への異動を機に新調した、紫のノーカラースーツ。ことしのトレンドを取り入れた生地だ。ちょっと値は張ったけれど、気合をいれて購入した。
スーツがわたしに声をかけた。負けるな、と。
「時間ある?」
わたしはうなずいた。
「じゃ外へ出ましょ」
*
すでにヘレンさんは近くのホテルの高級レストランに予約を入れていた。
時々エースが会合で使う。その伝票処理をしたことがある。
「ここのホテルは花の生け方とか雰囲気が、あたし結構好きなの」
先進的なデザイナーが老舗ホテルとコラボしたおしゃれな空間。
ランチメニューを見ながら悩む。と言っても選択肢は少ない。一番安いサンドイッチの単品が飲み会の会費並みだ。
しばらく節約しなくちゃ、とぼんやり思った。
そんなわたしの心をまるで見透かしたかのようにヘレンさんが言った。
「ここはあたしが払うから大丈夫よ」
「ダメです、割り勘にしてください!」
思わずわたしは大きな声を出してしまった。
「きょう、初めて声を聞かせてくれたわね」
ヘレンさんがにっこりと微笑んだ。
わたしは目をそらした。
*
大きなワイングラスでミネラルウォーターを飲みながらヘレンさんが切り出した。
「あたし、レイターを愛してるの」
ビジネススーツで昼間にする話じゃない。
それでどうしろと言うのだろう。
手を引けと言うのだろうか。
でも今、わたしとレイターはそんな関係じゃない。
「だから、レイターには幸せになってもらいたいのよね」
ヘレンさんがわたしに会いに来た意図がよくつかめない。二人がつきあうのならわたしに言わずに勝手につきあえばいい。
わたしから質問してみた。
「あなたが『裏将軍』の正室『御台所』なんですよね?」
「そうよ。でも、裏将軍は存在しない」
「存在しない? だって裏将軍はレイターなんですよね」
「過去にね。でも今の裏将軍は幻影よ」
さっぱり意味がわからない。
「実際にあの爆弾犯を捕まえたのは、レイターとヘレンさんじゃないんですか?」
犯人を追い詰める裏将軍と御台所の動画が頭に浮かぶ。息を飲む飛ばし。
「偶然、幻影が実体を伴っちゃったのよね。もうあんな奇跡は起きないと思うわ。考えても御覧なさい。レイターは普通の社会人なんだから」
普通の社会人、とは違う気がする。
「言ってみれば彼とあたしはビジネスパートナーってところかしら。彼の『裏将軍』という名義を借りてあたしは商売しているわけ」
二人のキスが思い出された。
ただのビジネスパートナーがあんなキスをするだろうか。
最初にレイターを愛している、って言ったばかりじゃない。
ヘレンさんがサラダを口にしながら言った。
「『裏将軍』の正室が『御台所』というのもあくまで契約」
契約?
「六年前、あたしとレイターは同じ部屋で一緒に暮らしていた。夜も共にしていたから、みんな本当につき合っていると思っていたけれど」
いや、世間ではそれをつきあっているというのではないだろうか。
「レイターとあたしはつき合うふりをすることで、利害が一致したの。あの頃、裏将軍とつきあいたいっていう女性がたくさんいてね。彼は断るのが面倒で、あたしと契約を結んだという訳。あたしは本当に惚れちゃったけど」
ヘレンさんは窓の外を見ながら苦笑した。
ランチのメインディッシュが運ばれてきた。
ヘレンさんは血の滴るステーキ。わたしはミックスサンドイッチ。
肉にナイフを入れながら、ヘレンさんは呟くように言った。
「彼は死んだ彼女のことしか考えていなかった」
フローラさんのことだ。
「レイターは病んでたわ。あの頃、彼は死んだら彼女に会える、って滅茶苦茶な飛ばしをして、船に乗ったまま死にたがってた。けれど、技術が高すぎて死ねなかったのよね。バトルを終えると、死にぞこなった、って本気で悲しんでた」
十七歳のレイター。将軍家の『月の御屋敷』で幸せそうな結婚写真を見た。
フローラさんのことになると、今でも、レイターから病的なものを感じる。
「夜も眠れないでいたわ。赤い夢を見るのが怖い、って怯えて」
赤い夢? 怯えるレイターという印象はわたしの中にはない。あの人はいつもおちゃらけていて自信満々だ。
一緒に暮らすということは、いろいろな一面を見るということなのだろう。わたしの知らないレイターをヘレンさんは知っている。
高額なミックスサンドを頬張る。おいしいはずだけれど、うまく味わえない。
「ギャラクシー・フェニックスが解散することになって、あたしとレイターの契約も終わった。その頃には、あたしは本気でレイターを愛してた。だから自暴自棄になって、やばいシマに足を突っ込んでいったのよ。そんなバカなあたしをレイターは助けにきてくれた」
ヘレンさんは水を一口飲んだ。
「そして、彼は好きでもない女のために、死の淵を彷徨うけがをした。あたしは彼に一生分の借りがあるの」
わたしだってレイターに助けられたことが何度もある。でも、それは仕事だ。
「今回、六年ぶりにレイターに会ってびっくりしたわ」
そう言ってヘレンさんは思い出し笑いをした。
「あたしより随分と背が高くなってた。・・・そして、死んだ彼女とは別の女を愛してた」
ヘレンさんの琥珀色の瞳がわたしをまっすぐに見つめた。
「わかる? レイターはあたしのことは何とも思っていない。だから、あたしのことは気にしなくていい。でもね、彼は死んだ彼女のことを、今も忘れられないでいる」
レイターが現在進行形でフローラさんのことを愛していることは、わたしも十分知っている。
「彼女の死は、呪縛なのよ」
「呪縛?」
「彼女はレイターが救われるための居場所だった」
救われる、という言葉がひっかかる。
「あたしは、彼と一緒に船を飛ばしてギリギリのところで命を張って、誰よりもレイターのことを理解していた。船という共通の価値観も持っていた。だから、いつかは、彼の居場所になれるんじゃないかって期待していたわ。船には港が必要なのよ」
レイターと同じ飛ばしの世界を感じることができる人。わたしにはまるでない能力。その自信が伝わってきて苛立つ。
「でも、ダメだった。けど、あなたならレイターを救えるんじゃないかと思うの」
また、彼女は救うと言う言葉を使った。いずれにしても、わたしはレイターにとってそんな存在じゃない。
「どうしてわたしに、そんな話をするんですか?」
「さっき言ったでしょ、あたしはレイターを愛しているって」
意味がわからない。
ヘレンさんが続けた。
「ただし、恋愛の愛じゃない、純愛の愛よ。だからレイターのためにいいと思うことをしているだけ」
「レイターのためにいい、というのはよくわかりません」
「死人に縛られるより、生きている人を愛する方が幸せじゃないかしら?」
「じゃあ、あなたのやっていることは意味が無いと思います」
「なぜ?」
「わたし、SSショーが終わってから、レイターと会ってないんです」
「あらそうなの。どうして?」
言葉にするのが苦しいけれど、彼女には正直に伝えなくてはいけないだろう。
「レイターが会いたくないって言うからです」
「ふ~ん」
彼女は前髪をかきあげた。
女のわたしが言うのも変だけれど、色っぽくてきれいだ。
「じゃあ、やっぱり恋愛の愛にしようかしら?」
「ええっ!」
不覚にも驚いた声を出してしまった。
レイターと共通の価値観を持つ、銀河一の操縦士にお似合いの彼女。
「冗談よ」
ヘレンさんが楽しそうに笑った。わたしの反応を面白がっている。
「あたしはね、母港はいらないって言いながら銀河を彷徨ってる魂に、居場所を与えてあげたいの」
天涯孤独なレイター。
月の御屋敷を訪れた時、彼が放った言葉に背筋がゾクっとしたことを思い出す。「たった一週間だったが、フローラは俺の家族だった。でも、フローラは死んでねぇ」ヘレンさんはあの闇からレイターを救い出したいと考えている。
「で、あなたはどうしたいの?」
わたしはどうしたいのだろう。
「・・・・・・」
「今、ここで答えなくてもいいわ。ゆっくり考えてみて」
オフィスに戻っても落ち着かなかった。
わたしがしたいこと。
レイターに会いたい。まずは、直接会って謝りたい。
でも、わたしはフェニックス号から乗船拒否されている。
*
週末、久しぶりにベルと遊ぼうという話になった。
自宅近くのショッピングモールをぶらぶら歩く。久しぶり、と言っても一カ月ぶりか。
「役員室はどう? フェル兄に言いよる女子はいない?」
ベルが聞いてきた。
「フェルナンドさんはカッコいいけれど、ほとんど気配を消しているのよね。時々、同じ部屋にいることを忘れちゃうほどよ」
「エース専務とはどうなのよ? 進展あった?」
「専務は仕事の話しかしないわ」
「フェル兄が言う通り、公私混同の人事じゃなかったんだ」
「今、エースはS1のことで頭がいっぱいなの。でも、今シーズンのS1が終わったら返事を聞かせて欲しいって言われた」
「もう、専務とつきあっちゃいなよ」
ベルがわたしの背中を押す。
「エースのことって憧れすぎてて、思考が停止しちゃうのよね。つきあうっていうイメージが全然できないの」
ため息が漏れた。
「レイターとつきあうイメージはあるの?」
ベルに聞かれてドキッとした。
「な、無いわよ」
とっさに答えた。答えてから思い出した。わたしはレイターとつきあう、という妄想を何度もしたことがあることを。
わたしはあわてて話題を変えた。
「営業のみんなは元気?」
「変わりなくやってるわよ。かわいそうなのはレイターね」
レイターの話に戻ってきた。
「かわいそうって、どうしたの?」
「ティリーのために高い新型の小型船を買ったんでしょ。それなのにティリーが異動でいなくなっちゃってさ」
「わたしのため? それは誤解よ」
レイターはこの間のSSショーで、ガレガレさんから船を買った。カミさんのための船。
その試乗は手伝ったけれど、それはわたしが操縦が下手だからで、下手な人でも飛ばせる船をレイターが探していたからだ。
「けど、あの船、誰も使ってないよ」
それはあの船がかわいそうだ。思わず力説する。
「ガレガレさんの船はわたしでも操縦できる優れものよ。はっきり言って、うちの『誰にでも優しいペルット』より乗りやすいんだから!」
「フェニックス号にぶつけるのティリーだけだもの」
「・・・・・・」
返す言葉がない。
ガレガレさんの船、そう言えば、あれからあの船は売れたのだろうか。
レイターと歩いたSSショーの会場が随分遠い昔のようだ。懐かしさがこみ上がる。
パビリオンを案内してもらって、ガレガレさんの船に乗って、現金交渉の様子を見て、驚いて・・・。
記憶の中にはあの日の輝きがそのまま凝縮されている。取り出すと消えてしまいそうで胸が苦しい。
「もう一度、ガレガレさんの船操縦したいな」
ベルが手を打った。
「よし、じゃあ、行こう。フェニックス号までここから無料ライナーですぐじゃん」
わたしは首を横に振った。
わたしはフェニックス号に拒否されている。
ベルはわたしの手を取って歩き出した。
「歩き疲れたから、おいしいコーヒー飲みたいんだよね。ここのフードコート、いまいちだし」
また、乗船拒否されたらどうしよう。フェニックス号の前に立つのは怖かった。
ベルがマザーに声をかけた。
「レイターいる?」
「います」
「新しい小型船を借りたいんだけど」
「どうぞ、ちょうどレイターは格納庫にいます」
マザーがドアを開けた。
マザーはもちろんわたしのことに気づいているはずだ。でも、何も言わない。
そのまま、わたしは船の中に入った。
毎週末のようにレースを観に来ていた勝手知ったるフェニックス号。最後に足を踏み入れたのはSSショーだ。ヘレンさんとレイターのキスを目撃した時以来か。
船の空気を吸い込む。懐かしい。匂いがあるわけじゃない。でも、この船独特の空気がある。散らかっているのになぜか落ち着く。
ここが、レイターの家だからだ。母港を持たないレイターが作り上げた居場所。
*
格納庫でレイターはガレガレさんの船の下に潜り込んでいた。
整備をしているのだろう、足しか見えない。
「ベルさん、この船借りたいんだって? 普通の小型船が空いてるからそっち使ってくれよ」
久しぶりに聞くレイターの声。
「その船じゃなきゃだめなのよ」
「あん?」
ベルの返事にレイターが船の下から顔を出した。
作業服のつなぎを着ていた。
わたしと目があった。
「ティリーさん・・・」
一瞬、驚いた顔をした。
けど、すぐにいつものレイターに戻った。
「これはこれは、役員室に栄転された専務の秘書様もご一緒で」
「そうよ、専務の秘書様がこの船に乗りたいっておっしゃってるの」
ベルが悪のりしてる。
「三十分待ってくれ、添加剤なじませたいから。居間でコーヒーでも飲んでてくれよ」
そう言ってレイターはまた船の下に潜り込んだ。
「そうさせてもらうわ。行こう、ティリー」
ベルがわたしの方を振り向いた。
「ここにいたい」
この船に乗って最初に発した言葉だった。
わたしはレイターが船の整備をしているところを見るのが好きだった。
レイターの部屋は散らかり放題だけれど、ここだけはきっちり整理整頓されていて、空気がピンと張っている。
器用な職人技を、ずっと見ていても飽きなかった。
レイターとは喧嘩ばかりしていた印象がある。けれど、そうじゃない時間もたくさんあった。少し離れたから見えてきた。
「おふくろさん、コーヒー頼む」
レイターの声が船の下から聞こえた。
しばらくすると作業机の上にコーヒーカップ三個とポットが用意され、いい香りが立ちこめた。
ずっと飲みたかったマザーのコーヒーだ。
香りが身体中に広がり、口の中で苦味と酸味が溶けあった。美味しさに涙が出そうだ。
*
作業を終えたレイターが油で汚れた手を洗い、作業机のコーヒーカップに手を伸ばした。
「それにしても、どういう風の吹き回しでい?」
レイターの質問にベルが答える。
「いやあ、この船はコーヒーがおいしいからさぁ」
「ったく、ベルさんが男だったら金取るところだぜ」
「ティリーが船を操縦したいって言うから来たの。この小型船ってティリーでも動かせるんでしょ」
「じゃあ、一時間五万リル」
「え~! レンタル船会社より高いわ」
ベルが抗議の声を上げた。
「冗談だよ。どうぞご自由にお使いください」
「ねえレイター、あなたとティリーの二人で行ってきてよ」
「あん?」
「だって、ティリーの操縦怖いんだもの。わたしじゃ何かあったらフォローできないわ」
レイターがわたしの方を見た。
「ったく、秘書様はどちらへいらっしゃりたいんで?」
「どこでもいい」
「は?」
わたしの答えにレイターは訳がわからないという顔をした。
「どこでもいいから、もう一度ガレガレさんの船を飛ばしたいの」
「とりあえず、木星の周回航路を一周するか?」
レイターの提案にわたしは頷いた。大通りの周回航路ならわたしでも操縦できる。
ガレガレさんの船の操縦席に乗りこんだ。
助手席にレイターが座る。
SSショーを思い出した。あの日もこうやって『カミさんのための船』を動かしたのだ。
エンジンのスイッチを入れる。やっぱりこの船は操縦しやすい。
引力圏も苦労せずに抜けられた。
どうしてこんなに簡単に操縦ができるのか不思議だ。値段は高いけれど、払うだけの価値がある。
周回航路に入る。この大通りは一方通行で、クロスする路線も無い。
操縦しながらでもレイターに話しかける余裕がある。
前方をみながら、ずっと伝えたかったこと口にした。
「レイター、ごめんなさい」
「あん?」
「エースとのバトルのこと。無効だなんて、わたしが言うのはおかしかった」
レイターが一呼吸おいて言った。
「あれさ、俺、やり直そうと思ってんだ」
「え?」
「ティリーさんの言うとおり、誰にも文句をつけられない状態でエースとバトルがしたくなった。あいつが引退する前に決着つけてやる」
ちらりと横を見たら、レイターは真剣な顔をしていた。
エースが引退する前に、って言ったけれど、エースが今シーズンのS1で引退するつもりだということを、レイターは知ってるのだろうか。
社内でもまだ役員限りの案件だ。ベルにも言ってない。わたしがそれをレイターに教えるわけにはいかない。
でも、この人もわかっているのだ、エースがもう『無敗の貴公子』でいることに疲れていることを。
わたしは、もう一つ伝えたかったことを口にした。
「あと、お礼が言いたかったの」
「礼?」
「ファッションイメージングのチケット。ありがとう」
エースと楽しんだSSショーの人気イベント。そのチケットを用意してくれたのがレイターだと、後からフェルナンドさんに聞いた。
「ったく、フェルナンドのおしゃべり野郎! 絞めてやる」
「フェルナンドさんは悪くないわ。いろいろとお世話になったのよ」
「冗談だ」
殴りかかるレイターが容易に想像できて、冗談という気がしない。
フェルナンドさんがいなかったら、わたしはレイターの本心がわからないままだった。レイターがエースとのバトルよりも、わたしの意思を尊重してくれていたことも。
おちゃらけたコーティングに隠された、レイターの心。もっと深く知りたい。
船を操縦しているとレイターの顔を正面に見ないから、話しやすい。
ベルのおかげだ。二人だけで会話する時間を作ってくれたことに感謝する。
わたしは話を続けた。
「ヘレンさんに会った」
隣でレイターが息を飲んだのがわかった。
「・・・どこで?」
「会社」
「はぁ?」
レイターは間の抜けた声を出した。
そうでしょうね、ヘレンさんと会社で会うなんてわたしも想像していなかった。
「あいつ、何しに来たんだ? 船でも買いにきたのかよ」
珍しくレイターが動揺している。
「昔話」
「ちっ、俺の邪魔するなっつったのに。あいつも暇だな」
おそらくレイターは、ヘレンさんとわたしの間でどういう会話が交わされたか気になっているに違いない。
でも、それ以上は聞かなかった。
逆にわたしが聞いた。
「レイターは、ヘレンさんのことどう思ってるの?」
「あん? ・・・大事な船仲間だぜ」
一拍置いてからレイターは答えた。
間違ってはいない。けれど、それだけじゃないはず。フェニックス号での二人のキスを思い出した。
ヘレンさんは言っていた。
「あたしは彼と一緒に船を飛ばして、ギリギリのところで命を張って、誰よりも彼のことを理解していた。共通の価値観も持っていた」
レイターと同じ世界を歩んだという絶対的な思いが溢れていた。わたしがうらやましく、ねたましく感じるほどの。
「ヘレンから聞いたんだろ、俺たちの話。裏将軍と御台所が政略結婚の真似事をやってたって」
わたしはうなずいた。
「俺はあいつの気持ちをわかってたが、応えてやれなかった」
契約という形で恋人を装い、一緒に生活していたという二人。ヘレンさんの一方的な片思いだったと彼女は言った。レイターはその想いを知っていたということだ。
「あいつはそれでも俺に尽くして、いろいろとよくしてくれた。それを俺は、自分のために利用したんだ。・・・ヘレンには、悪いことをしたと思ってる」
二人の話は微妙にずれている。でも、おそらくどちらも真実。
「あいつがいなかったら、今の俺はねぇ」
レイターの声から、ヘレンさんへの深い思いが伝わってきた。彼女が口にした『純愛の愛』に通じる。
彼氏と彼女という関係ではなかったけれど、二人はお互いを必要として支えあっていた。
ヘレンさんはレイターが好きでもない自分を助けに来て死にそうになった、と言ったけれど、そうじゃない。
おそらく、レイターには助けに行くだけの理由があったのだ。
レイターがポツリとつぶやいた。
「だが、みんな終わった話だ。もう裏将軍は存在しねぇ」
『裏将軍は存在しない』ヘレンさんも同じことを言った。
*
周回航路を半分ほど過ぎたところで、後ろの船が迫ってきた。心配になる。
「気にすんな。あんたはこのまま飛んでればいい」
レイターは、ちゃんとわたしの不安に気づいてくれている。
しばらくすると、その船はわたしたちを追い越して飛んでいった。
次に、後ろについた船は、ちょっと嫌な感じだった。
船間距離をぐんぐん詰めてくる。
「うぜぇな」
レイターがつぶやいた。
わたしが怖くなるほど船が迫ってきた。肩に力が入る。
ライトをパカパカと点灯させパッシングしてきた。あおり操縦だ。
「ったく、こういう奴は許せねぇ」
レイターがわたしのすぐ横まで体を近づけると、わたしの手の上から操縦棹を握った。
手と手が触れた瞬間、胸がざわめいた。
「ちょいと飛ばすぜ」
そう言いながらレイターは操縦棹を引っ張った。
船が急旋回した。
気が付いたら、相手の船の後ろにいた。
「船間距離をあけねぇとどんなに危険か、あいつに教えてやらねぇと」
レイターはどんどんと前の船との間を詰めていく。
ぶ、ぶつかる!
船の後ろにぴったりとくっついた。紙一枚ほどの隙間しか空いていない。目の前の船が急制動かけたら、衝突して大事故を起こす。
これじゃあ、こっちが悪質なあおり操縦だ。
操縦しているのがレイターじゃなかったら、「やめて!」と叫んでいるところだ。
前の船が、あわてて速度を上げる。
でも、どんなにスピードを出しても蛇行操縦しても、密着して離れない。まるで見えない糸で縫い付けられたみたいだ。
前の船が振り切ろうと、脇道に入った。
「逃がすか。バカだね、そっちはアステロイド区域だぜ」
小惑星帯に逃げ込もうと考えたようだ。
一つ一つの小惑星の区間が急速に狭まりだした。鬼ごっこで逃げるには最適だ。
けれど、レイターは伝説の飛ばし屋『裏将軍』、そして『銀河一の操縦士』なのだ。逃げられるわけがない。
前の船が旋回しようとして操縦を誤り、小惑星で翼をこすった。
レイターは接触を読み切っていたのだろう。難なくよける。
「修理費二十万リルだぜ。ざまみろ。あおり操縦なんてするからだ」
レイターの今の飛ばしは、あおり操縦じゃないのだろうか・・・。
「ここは、ちょっとティリーさんには無理だな」
小惑星帯から周回航路へ入るまでの間、レイターはわたしと手を重ねたまま操縦を続けた。がっしりとした大きな手が、細やかに操縦桿を動かす。こんな操作はわたしにはできない。
レイターの手の温もりが伝わってくる。
わたしはヘレンさんのように、二機で並んで船を飛ばすことはできない。
でも、こうして一緒の船に乗っていられるのがうれしい。
帰ってしまうのがもったいない。もっと遠出したい。
待て待て、ベルがフェニックス号で待っている。
それにしてもおかしい。
「この船って、安全仕様じゃなかったの?」
ガレガレさんの船は勝手に船間距離をとるようにできていて、加速もものすごく悪かったはず。
「悪いなティリーさん、あんたが異動しちまったから、ちょっと改造させてもらった」
わたしが異動したから改造した?
意味深な言葉に聞こえた。
わたしは思い切って聞いてみた。
「この船、わたしのために買った、っていう噂があるの」
「こいつ、今、ガレガレんとこで生産が追いつかねぇほど売れてるんだぜ」
「そうなの?」
「買う時、まけてもらったお礼に『損はさせねぇ』って約束したろ。この船のこと口コミサイトに書き込んでやったら、結構バズってんだ」
レイターは、わたしのために買ったかどうかは答えなかった。
それでもよかった。
きょうベルと一緒にフェニックス号へ来てよかった。レイターとこうして普通に話ができてよかった。
「また、この船に乗りに来てもいい?」
「ああ、いつでも乗りに来いよ」
その一言がうれしかった。
*
わたしは家に戻ってから新型船の口コミサイトを開いてみた。
ガレガレさんの船のページは異様に盛り上がっていた。『カミさんのための船』というエピソードが共感を呼んでいるようだ。
驚いたことに、納期が一年待ちになっていた。
月間販売ランキング一位の、うちの新型船『誰にでも優しいペルット』より書き込み数が多い。
一番はじめの書き込みが、レイターが書いたものなのだろう。
画面をスクロールさせ、タイトルを見た瞬間、そこで手が止まった。
『誰にでも優しい船より、愛しい人のための船』
クロノスの新型船のコンセプトをわざわざ、引き合いに出さなくてもいいのに。ちょっとムっとしながら本文に目を通す。
『あなたに愛しい人がいるのなら、その人のためにこの船を買うべきだ。値段が高いように見えるが払う価値がある。愛するカミさんを思って作られたこの船は、操縦が下手でも事故から守ってくれる。安全は買えるのだ』
この文章を目にしたら、急に文字がぼやけだした。
これは単なる一般論だ。レイターはわたしのためにこの船を買ったとは一言も言ってない。
なのに、なぜだろう。「愛しい人のための船」という言葉が突き刺さる。
わたしは涙が止まらなくなり本文が読めなくなった。
(おしまい) 第三十五話の前に <裏将軍編>「最後の最後は逃げるが勝ち」へ続く
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