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【私がアート思考になったワケ:③メディア論<身体性と精神性の拡張>】

【私がアート思考になったワケ:②高校生アート集団】のつづき

日芸

大学受験で日本大学芸術学部を志望すると、担任の教師は「お前のような勉強のできない個性のない生徒は合格できないから志望校を変えるように」とまで言われます。学校では存在を隠し、地味でスポーツも勉強もできない人格を装い、校外ではアート集団の団長という2重人格で生きていましたから無理もありません。日大芸術学部の放送、演劇、写真、文芸学部を受験してギリギリで演劇学部教養学科に合格します。芸術の総合大学と思いきや、、ちょっとした失望感をおぼえ、ギラギラとしたバブル期の大学生活をエンジョイするわけでもなく、カルトシネマとノイズやジャズなどの音楽に浸る陰鬱なアングラ青年の時代がはじまります。

メディア論

大学で1番影響を受けた講義が武邑 光裕先生の「メディア論」でした。サブカルチャーの研究を軸にマーシャル・マクルーハンの身体拡張としてのメディアをさらにテクノロジーが拡張していく未来や、ジャームッシュ他のカルトシネマ、神経生理学者 ヒューゴ・ズッカレリが開発した立体音響「フォロフォニック」(ヘッドフォン推奨)

や、音と光で脳を刺激するブレインコントローラ「シンクロエナジャイザー」フィットネスジムで体を鍛えるように、脳に刺激を与えて外部からクリエイティビティーを活性化し、ストレスの解消、生産性の向上を助ける効果があるという。

怪しく、刺激的な内容で、講義の内容もブッ飛び過ぎて当時はあまり理解できなかったのを記憶していますが、圧倒的に印象に残っているのがカウンターカルチャーの社会に対する影響力と、テクノロシーは身体性の拡張から精神の拡張へと向かう、といった内容で、それは今まさに現実に起きていることです。インターネット以降、カウンターカルチャーが社会に浸透し、対抗的文化思想であったサイケデリックに拡張された世界がテクノロジーと融合し、いつしか社会の主流にまで浸透している。当時のサイバーパンクは現代社会の背景に当然のように根を張り、マクルーハンの予言の通り世界が「グローバル・ビレッジ」(時間と空間の限界が取り払われ、地球規模で対話し、生活できる地球村)となり、「電子的な相互依存」の社会となり、身体性もテクノロジーで拡張され、機械と人間の関係はAIの進化でその境界がどんどん曖昧になっていきます。スティーブ・ジョブスの革新的な創造はサイケデリックな体験がなければ実現しなかったと本人も言っています。精神世界に興味を持ったジョブズは19歳の時、ヒッピーの聖地インドを放浪します。その後、禅の世界を拠り所に己の本質を見ていたのでしょう。精神の拡張、つまりサイケデリックな世界が作る未来が現代のテクノロジーの背景にある。30年前に武邑先生はそんな話を話していたのだと思います。これが大学時代に最も影響を受けた社会思想でした。

アパートをアトリエに

大学は退屈でした。芸術の総合大学とはいっても創造的なエネルギーに満ち溢れているとは思えず、面白いヤツがいたと思ったらリュックを背負って学校に来て今日からインド行くから、、と学校を退学していきました。大学でも孤立した柴狂はさらに深く深層に分入っていきます。当時流行りの中沢新一、浅田彰、ドールーズなど現代思想を読み、タルコフスキーやケネスアンガー、ホドロフスキー、ジャームッシュ、ゴダールといったカルトシネマを観るために夜間のコンビニ清掃のバイトをして、人知れず一人暮らしのアパートをアトリエに誰にも見せる事なく創作活動をはじめます。

大学生活をエンジョイするどころか、遊びまわる他の学生とは馴染めず、大学と映画館と下宿先のアパートを往復する生活から都会の閉塞感を感じた私は、部屋に居ても息苦しさを感じ、日増しにその息苦しさは増していきました。

なぜ息苦しいのか?そこで、私は空気を可視化しようと試みます。6畳の部屋一面にトイレットペーパーを張り巡らし窓を少し開けると、かすかな風にもトイレットペーパーが揺らぎ、部屋の空気を可視化する事ができました。ベッドに寝転び、天井を見上げると部屋中を埋め尽くしたトイレットペーパーは生き物のように揺らぎ、空気の存在を感じ、深呼吸ができるようになりました。

生きるために必要なものに興味を感じた私が呼吸の次に気になったのは血液でした。血液は生命維持の必需品であるに、なぜネガティブなイメージになってしまうのか?体重50kgの人の血液量は4Lになります。人間は、全血液量の約30%以上出血すると生命の危険があるといわれます。血は必ず事故や死をイメージさせますが、 血液はもっと肯定的に捉えるべきではないか?そう思った私は自らの腕にカッターで切り込みを入れ流れる血をレタスやきゅうりなど新鮮な野菜にかけてその赤を愛でる行為を独りで楽しんでいました。それは芸術作品というより自慰行為に近い事だったと思います。誰かに見せる必要もなく、ただ、思い立った事を実行していました。

当時、下宿先のアパートの2階に住む祖母は「このマンションには変な人がいるから気をつけなさい」と言いましたが、それはまさに自分の事でした。

大学の頃、他に何をしていたか、、出来たばかりの西麻布のクラブYELLOW、TOOL'S BAR、P.Picassoで朝まで踊り、マウントフジジャズフェスでアート・ブレイキー、フレディー・ハーバード、ジャッキー・マクリーン、ジミー・スミスなどBluenoteのジャズの巨匠達の生演奏に浸っていたこと以外、あまり記憶にありません。

思い出は学食のチキンカツ定食がとても好きだった事、学園祭の企画が過激だからという事で直前で中止になりトランコパール(精神安定剤)を飲みすぎて3日間眠り続けて、起きた時、生きててよかったと思った事。。くらいです。

日芸の卒論はバリ舞踊の中で神が降りる時、つまりトランス状態にある人々を大脳生理学的に解析する事をテーマにしました。バリとの出会いが人生を大きく変える事になります。

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