夏に願いを(2)
叶居逢花が転校すること。
別に高校生活が永遠に続くなんて思っていたわけじゃないし、誰かが転校したって僕の高校生活は続く。けれど、今あるものが三年間続くものだと信じて疑わずにいた僕にとって、これは大事件だった。なぜなら僕は、叶居さんに片思いをしているから。気持ちを伝える気など全くないけれど、高校にいる時間だけは、あと一年半のあいだは、目で追いかけることができると思っていたから。もうあと少しで会えなくなるなんて、心の準備が全然できていない。
それでも、このことがきっかけで叶居さんと話すようになったことは、将来的には会えなくなる=ゼロになるというのに、僕の心を浮足立たせている。
叶居さんは転校のことがクラスに知れ渡ってから、なぜか西端の階段にいることが多くなった。もともと僕専用階段のようになっていた場所に叶居さんが座っているのを見かけるたび、短い会話をするのが日常になっている。叶居さんはたいてい楽譜を眺めているので、大した会話はしない。けれどコミュ障の僕にとっては、会話のラリーを頑張らなくていいのでむしろ好都合だった。
「いつも楽譜見てるね」
「うん。課題曲のだよ。これね、高校生が作曲したんだって。すごいよね」
「え、高校生の曲を高校生が演奏するの?」
「そう。『煌めきの朝』っていうんだけどね」
「へえ」
「聴いてみる? 動画あるよ」
叶居さんがスマホを取り出して、ワイヤレスのイヤフォンを片方貸してくれた。僕が叶居さんの座っている階段の少し下に座ると、叶居さんが画面を僕にも見えるように傾けてくれた。小さな画面を共有するため必然的に同じ段に座りなおし、距離が近くなった。明るくて楽しげな曲だということは分かったけれど、僕は叶居さんの隣に座っているということに気をとられてしまって、自分の心臓の音ばかりがうるさくて音楽がちゃんと頭に入ってこなかった。
「転調で雰囲気が変わって、特に後半の歌う木管パートとそのあとの華やかな金管がいいでしょ」
「う、うん」
「でもね、難しいんだよ、これ」
「そうなの?」
聴く分にはシンプルで難しいというイメージはなかった。とはいっても、僕は楽器をやらないから、演奏する上での難易度は分かりようがない。
「すごく直球な曲だから、キビキビしないと格好がつかなくて出だしでいつも注意されちゃうんだよね。出だし揃えるの難しいんだよ、皆で他の人の出方を窺っちゃうから、どうしても気持ちで音が遅れちゃうの」
「そうなんだ」
「うん。コンバスは皆の後に入るんだけど、出だしが揃わないから入ろうとすると先生が止めちゃって、おっとっと、ってなる」
叶居さんが弾こうとして弾けない場面をエアで再現して、きまり悪そうに笑った。直球な曲、というのはなんとなくわかる気がする。タイトルに「朝」とついている通りの曲というか。いかにも「おっはよー!」という曲。でも僕の朝はもっと地味で静かで、どちらかというと朝なんてこなくてよかったのにという後ろ向きな感情を引きずりながら身支度をする惰性の時間だから、これを朝と言われると「陽キャの朝だな」という感想しか出てこない。そもそも「煌めきの」だから陽キャで間違いなさそうだし、コンクールで『惰性の朝』なんてあっても困る。
「それに私ね、ちょっと前までは朝ってこんな気持ちだったんだよ。でも転校が決まってからは、あと何日朝が来たら転校なんだ、みたいに考えちゃって、余計にこの曲が難しいなって」
「あ、わかる。僕も毎朝が終わりの始まりみたいだから、こんなテンションだとちょっと」
「あはは、金出くんの朝ってそんな絶望的な朝なんだ」
「いや、でも」
言いかけて、慌てて続きの言葉を喉の奥に押し込んだ。学校に来れば叶居さんがいるから、なんて、言えるもんか。たくさん喋る叶居さんといると、うっかり僕も口数がいつもより多くなってしまう。だけど会話に慣れていない僕は、心の声と実際に出して大丈夫な声を選ぶのを自然にやってのけることが難しい。だからなるべく相槌に留めるようにと、今いちど頭の中で言い聞かせる。
「顧問の隅野先生も、これは演奏する人間が本気で演奏を楽しんでいるかを試される曲だ、って言ってて。コンクールは結果も大切だけど、まずは演奏者が楽しむのが第一、って。いま私、うまく楽しめてないなぁって、なんか落ち込んじゃうんだよね」
確かに落ち込んでいるときに演奏して手放しで楽しめる感じの曲ではなさそうだな、と思った。だけど僕はこの曲が朝じゃなければ共感できる。たとえば今、叶居さんと一緒に聴くならこんな曲がいいなと思うからだ。
「……朝、って限定しなくてもいいのかも」
「え?」
「音楽は、歌詞がなければイメージだけだし、きっと別に『朝』じゃなくてもいいんだと思う。叶居さんが楽しいことをしているときのことを考えて弾けばいいんじゃないかな」
「……金出くん」
「あっ、弾けもしないのにごめん」
「あ、ううん! そうじゃなくて、なんかすごいね」
「え、すごくないよ、出しゃばっちゃって」
相槌に留めると思ったばかりなのに、僕は心の声を口に出してしまっていた。叶居さんが目を丸くして僕を見ている。珍しく長話をするとやっぱりおかしなことになるんだ。僕は俯いて階段の滑り止めの溝の本数を数えた。
「ね、じゃあさ、楽しいことするの手伝ってよ。予定立てて、それを指折り数えてワクワクする気持ちで弾くから」
「え、僕が? 叶居さん友達いっぱいいるのに」
「お願い。みんなで遊んでると転校のことで変に気を遣われてる空気すごくて。私といるとみんなバカ騒ぎするの遠慮してるから、居心地悪いんだよね」
叶居さんがここへ来るようになった理由か。人間関係はやっぱり難しい。それにしたって僕が叶居さんと予定……。僕の脳内は嬉しさと気の毒さと自信のなさとがごっちゃになって、ぐるぐると回路が絡まって思考がまとまらない。
「ね、お願い!」
「……え、っと、僕なんかでよければ」
断り切れず、つい、返事をしてしまった。
放課後、部活に行くと顧問の矢口先生から『インタイハイ』のスケジュールが告げられた。インターハイをもじった引退試合だ。全国進出ならずの我が部に何年も続く伝統で、全国大会と同じ日に三年生が下級生を相手にトーナメント試合を行う。下級生側の人数が多いため三年は体力勝負となるが、先輩としてのプライドをかけて挑戦者を待ち受ける構えだ。僕はこの通りやる気がないので昨年同様に初戦敗退して、のんびりベンチを温めようと思う。
※この小説はPenthouseの『夏に願いを』を聴きながら書いています。フィクションで、バンドの楽曲の世界観とは必ずしも一致しませんが、もしよかったら楽曲を聴きながらお楽しみいただけると嬉しいです。