プロポーズ
②プロポーズ
スマホを片手に欲しい指輪を検索していると、頭の中に過去の自分の映像が流れてくる。
病院の大部屋。カーテンで仕切られたわずかな一角。陽も差し込まないそのベッドの上で、寝転がりながら同じようにネットサーフィンをする私。
ステージ4の癌の告知をされてから、一週間くらいが経っていた。
7月に入ったばかりのその日は、よく晴れたいい天気だった。
「外は暑いよー。夏が来ちゃったみたい。中にいられる方がいいよ」
そんなことを看護師さんに言われた。
もう半月も病院から出られていないわたしは、暑さに溶けてしまってもいいから外に出たかった。むしろそのまま溶けてしまいたかった。
頭の中と口から出ることばは違う。
「そんなに暑いんですか〜。エアコンは最高ですね」そう言って笑った。
看護師さんは忙しそうに、何かを交換して出て行った。
誰かに弱音を吐くこともしないまま、とにかく私は黙々とアニメを見た。
ちびまる子ちゃんやクレヨンしんちゃん。
誰も死なないし、誰も孤独に打ちひしがれていない。平和そのものの世界に、私は没頭した。
生存率などこれからを知る情報も、「癌にはこれが効く!」なんてお金の匂いのする情報も、なにも要らなかった。
とにかく無になって、あははと笑っていたかった。
「きたよ〜」
カーテンの向こうからそう声をかけられて、私はどうにか起き上がった。
心タンポナーデの手術をし、薬の投与も始めた私は、ようやく少しずつ歩けるようになっていた。
待合室までゆっくり足を進めて、ふーっと息をつき、椅子に腰掛け、にこっと笑った。
彼も微笑んでいた。
「はい」
後ろに回していた手から、桃色のプリザーブドフラワーが出てきた。
「どうしたの?可愛い!」
「病院は生のお花だめだろうからさ」
そう言ったあと、彼は少し真剣な顔をした。
「僕と結婚してくれませんか?」
数秒の間にいろんな、本当にいろんな感情が渦のようにぐるぐると回った。
嬉しい、悲しい、不安、悔しい、嬉しいー。
そんな感じだったとおもう。
「でも…お母さん反対するんじゃない?」
「それは僕の問題だから。僕が決めることだから」
「私すぐ死んじゃうかもしれないよ?」
「僕が死なせないよ」
涙がぽろぽろこぼれ落ちて、「ありがとう」と伝えて、「ごめんね」と謝った。
小さな頃から、しあわせな家族を作るのが夢だった。
それはきっと、父と母、妹、私という、途中で歪んでしまった家族では見られなかった家庭像、愛を求めていたんだとおもう。
いろんな感情になったけれど、やっぱり嬉しいというのが一番だった。
「退院したらゼクシィ買いに行かなきゃね」
彼は泣いている私を見ながらそう言って、いたずらっぽく笑った。
「ねぇ、プロポーズされちゃった」
母にそう報告した。
「おめでとうー!!」
返信には、祝い事に多用されそうなスタンプがこれでもかと並んでいた。
戸惑いのない返事に少しびっくりしたけど、後から彼と母の間で先に話があったことを知った。
彼の職業である医師という仕事は、病気のことを学び、それを現場で活用する。
だけど、患者や家族の気持ちって、簡単には理解できない。
本を読んだり、患者の声を聞いたり、寄り添うことはできて、それは立派なことだけど、やはり当人にならないとわからないことがある。
私の亡き後も、この経験が彼の医師としての経験に活きたらいい、そうおもった。
食欲が湧いて、美味しくないと感じていた病院食ももりもり食べた。
先生や看護師さんも驚くほどのスピードで回復した。
シンプルなものがいいか、ワンポイント石がついたものがいいか、どうせ長生きはしないのだから今だけを考えて可愛らしいらしいのを選んじゃうか。
指輪を検索しては、たくさんスクリーンショットを撮った。
私の心は久しぶりにうきうきしていた。
自分が壊れてしまわないように、無意識に「無」になろうともがいていたんだと気づいた。
この喜びは一瞬にして壊れたけど、あの時の一番の薬は、間違いなくプロポーズだった。
勢いで書かないと心がぐちゃりとなりそうなので、③も近いうちに…。