自己紹介① 幼少期~青年期
noteを始めて改めて自己紹介を綴ってみる。
私は1981年生まれの41歳。妻と小学生の娘と3人で暮らしている。
41年の人生をなかなか一言で書ききれるものではないが、簡単に自己紹介として半生を書いていきたいと思う。
幼少期
私は幼少期、聞いた話にはなるが、友達が多く、決して極端に活発という事も無いものの、温厚で人を選ばず誰とでも仲良く幅広い交友関係を築いてきた。らしい。さほど記憶にはないが、確かに今現在でも「嫌いな人」というのはなかなかできず、ある程度は分け隔てなく付き合える性格ではある。
母親から聞く話なので本当かどうかは定かではないが、たいそう人気者だったらしく、遊ぶ相手が順番待ちだったとか何とか。記憶にはないので真相は分からないが。
そんな中、小学校2年生の時、親が離婚することになった。うっすらしか記憶にはないが、夜な夜な親がけんかしているのを覚えている。
離婚が決まり、親権は母に。そして関東に住んでいた私は母の故郷でもある関西に引っ越すことになる。
当時はよく理解できていなかったが、今でこそ離婚というものは珍しくなくなり、統計上でも3組に1組は離婚する時代となったが、当時はまだ非常に抵抗のあるものだったのだろう。環境を変えて、リスタート、というわけだ。
親が離婚して関東から関西へ。今思うとなかなかなじむにはハードルが高い要素が多いなと思うが、当時の自分には全くハードルは感じなかったのは幸運だ。
小学校の文具や持ち物はすべて旧姓が書かれたまま。転校してきて自己紹介をして、席に着くと転校生に興味津々の同級生たちはいっせいに気付く。
「なんで違う名字が書いてあるの?」
なかなか残酷な質問だ。子供の純粋さは残酷さと表裏一体でもある。
だが、当時の私は全く気にせず、離婚というものを同級生たちに説明した。親と親が離れ離れで暮らすことになって、母親の方についてきたから母親が結婚する前の苗字に変えたのだと。
同級生たちは「へー」といった感じですぐに打ち解けた。
離婚の説明をした後に、
「筆箱の中で虫を飼っているんやけど、見る?」
と言い、嬉しそうに筆箱の中に飼っている虫を見せてくれた。
このようにして、今思うと危なっかしいが、当時の自分としては難なく新天地での新しい生活がスタートした。
少年期 小学校時代
私は多くの友人にも恵まれ、楽しい学生生活を送っていた。
いつも遊びに誘ってくれる友人がたくさんいて、私から誘う事は必要が無い。これは幼少期からの母からの情報とも合致するのだが、恵まれていることから、どうやら「誘う」という行為をしなくなったようだ。これは実は現在の自分にも言える。実は今でも「誘う」という行為は苦手だ。
それはさておき、私自身は充実した学生生活は送っていたものの、家庭に変化があった。母がおかしい。
私が母と住んでいた家は母の実家から徒歩10分ほどの距離にある小さなアパートだ。母の親、要するに私にとっての祖父母は非常に厳格な人で、家系としては地元の名士であり、周りは国家公務員や銀行員ばかりだ。政治家なども輩出している。とはいえ過去の栄光でもあり、今では没落した普通の家庭だ。
だが、連綿と続く家系のプライドというものはなかなか消えるものではない。母はその厳格な親に育てられたため、非常に引っ込み思案で意思表示をすることは少ない性格だ。そんな厳格な家庭を飛び出したくて結婚した母だったが、離婚することにより出戻ることになったのは母にとってもストレスはあっただろう。祖父母からしても管理したい気持ちも出てくるはずだ。当然ながら経済的な援助も受けていたようだし、母はパートはしていたが当時の労働環境は今とは違う。援助を受けることによって猶更引け目を感じることもあったのではないかと思う。
母の様子がおかしくなる。明らかにアルコールの量が増え、帰ってこないことも増えた。小学生にとっていきなり親が帰ってこなくなることは恐ろしいものだ。当然食事もどうすればよいかわからないこともあった。祖父母のところに行けばよかったものの、私の性格上、これは言ってはいけないことなのではないか、母にとっては隠し事ではないのか、というのが幼心にも感じていた部分があり、祖父母のところには行けなかった。今考えるとそれが元凶なのだが。
明らかに母は何か良からぬことをしていた。それは幼心にも十分察知出来た。妙な電話がかかってきたり難しそうな手紙も家に届く。知らない人が家に訪ねてきて色々なことを聞かれたこともあった。
今でいう「ネグレクト」という状態だったのかもしれない。完全なる放任にもかかわらず、その状況を祖父母には話せない、という奇妙な構図が出来上がってしまった。
青年期① 中学校時代
相変わらず、学生生活は充実していた。友人関係は幅広く、多くの友達と青春を謳歌した。中学生にもなると「離婚」というものもしっかり理解し、同じような境遇の友人も増えた。こんなこと言うと怒られてしまうかもしれないが、母子家庭などの家庭環境の子供たちはちょっとひねくれてつっぱっている奴が多い。それがまた面白く、私は好んでつるんでいった。そのコミュニティは俗にいうヤンキーだったのかもしれない。
そのコミュニティは本当に面白くいいやつばかりで、楽しかった。ただ危なっかしいことや、法的にNGなこともたくさんしようとする節があった。
そこは私は嫌で、友人たちには堂々と注意した。
「万引きしたあかん」
「バイク盗んだいかん」
「それなりに喧嘩するのは構わんが怪我するようなことはするな」
今思うとリスクが高いことをしてたのかなと思う。注意していじめられたり、リンチされたりなどというニュースはよく聞く話だ。そんなことは一切気にせず、友人たちに言ってしまっていたが。
友人たちは何故か素直に聞いてくれた。中学生なのに金髪でバイクに乗ってタバコをふかしているような連中だ。
「Hのいう事はいつも正しい」
そう言ってくれて、私に隠れて悪いこともしていたようだが、私の前では嫌がることはしないでいてくれた。そういうコミュニティに属していると、いわれもなくあったこともない他校の連中に喧嘩を吹っ掛けられることも少なくなかった。ただ私はそんなことはしたくもないし、する意義もない。そんなときはいつも友人が勝手に話をつけてくれた。ヤンキーコミュニティに属しながらも、自分自身は真面目なつもりだった。ただ友人たちがたまたまヤンキー的な見え方をする人間だったというだけだ。
そんな学生生活を送る中で、家庭の問題は引き続き悪化していた。
母はアルコールに溺れ、散財するようになった。
父親とは年一回の面会があったのだが、高校の進学の時、私立の受験を考えており相談をしたことがあった。もちろんコストの面で私立に通うつもりはなかったのだが、滑り止めという事で受験だけはしておきたかった。さすがに中卒は避けたい。公立高校に合格する自信はあったが、私立も併願で受験するのはスタンダードな選択だった。
母に先にそのことを話し、併願で私立も受験したい。もちろん通うつもりは無いが、念のため、という事を話すと、
「そんな金は無い」
と言われたからだ。まだバイトもできない中学生は残念ながら親に頼ることしかできない。祖父母に相談をすると母が散在していることがばれてしまう。そう思い、父に相談したわけだ。
「離婚した時にお前の学費を積み立てた預金は渡してある」
と父は言った。初耳だ。即、母にそのことを伝えた。学費はあるはずだと。
悪びれることもなく母は、
「そんなものとっくに使ってしまった」
とのことで、一瞬抱いた夢はついえた。それと同時に母の散財がリアルに実感できた。
その後、私は公立高校を受験し、合格したことで事なきを得たが、合格を何も喜んでくれない母を見て、なんとない不安感と虚しさを覚えた。
青年期② 高校時代
高校に入学し、相変わらずの充実した学生生活を送る。中学時代に作った友人関係は他校にもおよび、時には喧嘩を吹っ掛けられたやつも結果的に友達にもなった。いざ、集まるとなると大所帯で本当に楽しい。相変わらずチンピラまがいの連中だが、注意をするとちゃんと聞いてくれるいい友達だ。
私は入学して即、アルバイトを始めた。家庭の経済的な不安や、母からの自立の必要性を強く感じていたからだ。初めてのアルバイトは俗にいうガテン系のもの。日雇い労働の建築現場だ。ヤンキーコミュニティではこういったバイトの話はすぐに舞い込んでくるからありがたい。報酬も高く、当時で日給は1万円を超えていた。
とりあえず、最初は3日間働いてみた。労働は厳しくも楽しく、現場の先輩方はみんな強面でムキムキで怖いが優しい。考えられないくらい重いものを片手でひょいっと持ち上げる姿は素直にすごいなと思った。
そして3日分の初給料をもらった。4万円に届こうかという金額は高校生にとっては大金だ。ホクホクしながら自宅に帰った。使い道は実は決まっている。バイクの免許が欲しかった。免許の取得とバイクを購入するための資金にしたいと思っていた。
単純にバイクが好きでカッコいい、という思いもあったのだが、それ以上にデリバリーのアルバイトをしたかった。当時はウーバーのようなデリバリーもなく、少数派の職業だ。時給もよくてなんとなくカッコいい。縛られるのが嫌いな私にとってはバイクは自由の象徴のように見えていた。経済的な不安を払しょくするための仕事でも、無意識的に自由を感じていたかったのではないかと今になって思うが、当時はそこまで考えていなかった。とにかくやってみたい。
だが、自宅に帰った瞬間、その思いはついえる。
「今まで払ってきた生活費返してよ」
と母は言う。アルバイトの初給料をあてにしていたのであろう。帰宅するとすぐに言われた。何が起きても感情的になることは無い私だが、その時はいらだった。どうせ酒や遊びに消えるだけだろう、息子の初給料を当てにして恥ずかしくないのか。そんな思いが口からこみあげてきたが、言い争うとまた母が帰って来なくなる。状況が悪くなると、不安をあおるような発言をしてほのめかすのだ。
それを分かっているからこそ、反論するつもりが起きない。怒りの感情はあったが、黙って初給料をすべて渡した。
結果、バイクの免許はあきらめ、原付にグレードダウンした。原付免許でもデリバリーのアルバイトはできる。そして、免許を取得し、ピザのデリバリーのアルバイトを始めた。
日雇いの労働と違って、定職に就くとまた違った感覚がある。バイト先ではまた友人ができ、仕事を頑張ることで昇給や、役職を任されることの楽しさも覚えた。そして、お客様から感謝の連絡をいただいて社内で表彰されたりと嬉しい出来事も経験し、労働の喜びを高校生ながら学べた。
引き続き母の搾取は続き、高校生ながら月に5万円を毎月入れていた。そうなると早々貯まるものではない。バイクの中型免許は高校2年生まで取得はずれ込んだ。
そして、もうひとつ夢があった。実は中学生の時に既に将来は洋服屋で働きたい、という夢があった。そのためには専門学校に進む必要がある。学費を親に頼ることはできないし、貯めようと思っても毎月搾取されるようではなかなか貯まらない。
だが、決めたことはやる。
洋服屋の夢は中学生の時に、祖父母にもらったお年玉で一人で買い物に行ったときに生まれた。当時は裏原ブームでビンテージデニムやスニーカー、レッドウィング、クロムハーツなど、中学生には到底手が出ない、むしろどこで売っているのかすらわからないようなものが憧れのアイテムだった。インターネットもなく雑誌くらいしか情報経路が無い時代で、穴が開くほど雑誌を見て、現物すら見たことが無いビンテージデニムに恋焦がれた。
祖父母にもらったお年玉で、渾身のなにかを買う。無茶苦茶迷った。ビンテージデニムなど到底買えない。そこで501の生デニムを買おうと決断した。当時の中学生にしては渋いチョイスだ。
雑誌で生デニムが恐ろしく縮むことは知っていた。そして色落ちが履き方や洗い方によって変わることも知っていた。それを実際に体験したかったのだ。
ある程度都会のジーンズショップ(今では淘汰されたが)に緊張しながら入る。明らかにジーンズに詳しいであろうアメカジ感満載の中年販売員に色々と質問し、生デニムの501を入手した。
そこからだ。洋服のパワー。買ったとき、着るときの高揚感。ファッションの持つ力を感じた。洋服でここまで楽しくなれる。自信が持てる。こんな楽しいものはない。そう感じた。
その夢を追いかけるためには学費が必要だ。
こうして、夢を追いかけるための活動を高校生から積み上げていくことになる。
自己紹介②に続く