自己紹介② 青年期、高校時代
noteを始めて改めて自己紹介を綴ってみる。
私は1981年生まれの41歳。妻と小学生の娘と3人で暮らしている。
41年の人生をなかなか一言で書ききれるものではないが、簡単に自己紹介として半生を書いていきたいと思う。
今回は高校時代からのお話し。
以前のエピソードはこちらから。
青年期 高校時代に感じるお金という恐ろしいもの
私は相変わらず充実した学生生活と、不安な家庭環境という対照的な状況のはざまにいた。ピザのデリバリーアルバイトをしながら好きな洋服を買い、高校卒業後の専門学校の学費を貯める。だが、母から要求される金銭は月額5万円の定額からさらに不定期で要求されることも増えてきた。
その頃、初めて扶養家族という考え方やそれに伴う収入制限のことを知った。アルバイトで収入を増やそうと思っても、母の扶養家族としての立場だと収入の限界があるというのだ。
高校生の私からすると全く納得できない。なぜまじめに働こうかというものに制約を設けるのか。高校生くらいの年齢だと税金や保険の理解は非常に浅い。学校でも教えてくれることでもなく、母も当然教えるような人間ではない。
アルバイト先の店長から教えてもらった。
「Hは年末まであと○○時間しか働けないよ。扶養の上限超えちゃうから」
何という事だ。
このままだと学費を貯めるなんて不可能な話だ。
今考えるとこの年齢から国の税制に疑問を持つような環境はちょっとかわいそうだなと自分に対して思う。
店長から聞いた話では年間で103万円までが上限だという。それを超えると母が支払う税金が跳ね上がる。なるほど。例えば扶養家族から外れてがむしゃらに働いたとしても母の税金が上がるとなると、搾取される口実を母に与えることになるし、さらに余分に取られることも十分に考えれる。
これは支出を減らすよう仕向けるしかない。母の散財を管理するのだ。
大体月の給料で8万円前後が上限だという事になる。そして定額で母に5万円を入れ、不定期で数万円要求されているので、実際に手元に残るのはほとんどない状況だ。この状況を続けていても何の意味もない。
母に扶養の仕組みを説明し、これ以上の収入は難しく、支出をコントロールする必要があることを話した。
母もパートをしており、聞く限りでは8万円ほどの給料を毎月もらっている。そして家賃は祖父母が負担している。父からの養育費は月に4万円。つまり家庭の経済力としては月額で17万円だ。光熱費を差し引いても十分生活できるのではないか。そのように問い詰める。
母は苦虫を嚙み潰したような表情で、
「あんたがわからん費用もたくさんある。」
と譲らない。
じゃあそのわからん費用とやらを教えてもらい、月の固定費を明確にしよう。そこから節約すべき点を見出していけばよい。
高校生ながら非常に良い指摘をしていると思う。
問い詰めていくと、母は借金を白状した。
充分に予想していた結果だ。間違いなく良からぬことをしていることは察知していた。借金の督促だと思われるものも幼少期から目にしていた。
「そんなお金いったい何に使ったの?借金はいくらくらい?」
素朴な疑問を母にぶつけたが、ここは答えない。
恐らくロクなことではないと思うのだが、母の口から真相は語られなかった。
「とりあえずダイヤを質屋に入れてるから取り返したい。それにはお金が必要やから、いくらか貸してほしい」
と母は言う。正直あきれた。
当時、質屋のシステムはなんとなくしかわからなかったが、とにかくお金を返さないと、そのダイヤのアクセサリーが戻って来なくなるとのこと。
母はそのダイヤの価値を私に熱弁する。ここで返って来なければ大損だ。とりあえずお金を支払ってダイヤを取り返せば、また質屋に入れるか売ってしまえばもっと大きな金額になるから、すぐにお金は返せると。
母の目がギラギラしていて少し恐怖を感じた。子供の私に対して融資を取り付けるために熱弁している訳だが、忘れてはいけないのは母と息子という関係だ。けして私は銀行の融資担当ではない。
だが、数万円渡してしまった。なぜなら失踪や良からぬことをほのめかすからだ。いつもそう。お金を渡さなければ不安をあおる発言をしてくる。
家庭環境はそのようなことの繰り返しだった。一向にお金はたまらず。家に帰ればお金の無心ばかり。酒に酔っ払った母は容赦なくお金の無心と愚痴をこぼし、私はそれを聞き、対応する。
灰色のフィルターがかかったような家庭の生活は苦痛だった。
出口も見えず、耐え忍ぶしかない。そう思った。
青年期 充実した学生生活
家庭環境の苦しさとは対照的に学生生活は華やかだった。
多くの友人に恵まれ、その頃に彼女もできた。高校1年生の夏ごろだ。
スクールカースト最上位の校内で言うところの高嶺の花とされる素敵な女性で、なんたる幸運か、彼女からアプローチを受け交際に発展した。
私はこんなこと言うのもなんだが、なかなかモテた。明らかに自慢なのだが、過去の栄光を懐かしむ中年のボヤキだと思って受け止めてほしい。
彼女が出来た高校1年生の1年間に他校も含め30人弱の女性から告白された。バレンタインの日は大変だ。マンガのようにロッカーにはたくさん詰め込まれ、直接渡されたものもたくさんあり、カバンの中はチョコレートでパンパンだ。
だが、私は真面目で女性の扱いは当時不器用だった。誓って言うが彼女以外の女性と関係を持ったことは一度もなく、仲の良い健全な男女交際だったと思う。そして、その交際は10年間続くことになる。
並行して誘われてバンド活動も始めた。私はファッションが好きでファッションと音楽はカルチャーとして切っても切り離せないものだ。
ギターもカッコいいじゃないか。やってみよう。安易な発想だ。
ファッション、バイク、そしてギター。若者が興味を持つであろうミーハー要素は網羅していた。
友人関係も幅広く、それなりにモテた私はバンド活動の集客も順調だった。音楽に対してこだわりはそこまで強くなく、コミュニティにアンケートを取ってやってほしい楽曲を募るリクエスト方式を取るなど、非常にナンパで信念の無いバンド活動だったが、ライブハウスにも出演し、学園祭にも出演するなど、いろいろやったいい思い出だ。
ギターは高い。家庭の経済状況は先述の通りだが、早々買えるものではない。最初は入門セットのような一番安いレスポールタイプを購入した。だが、すぐに飽き足らなくなってくる。
私は今も昔も何かのファンになったことが無い。野球やサッカー、アイドルやアーティスト。心酔したことが無く、何かのファンになりたい欲求はすごくあるのだが、そこまで心酔できないタイプだ。
ファン活動というものは凄まじいパワーを発揮するものだと思う。それは少しうらやましい。
当時はビジュアル系バンドの全盛期だった。まったくファンでもなんでもないのだが、多くのビジュアル系バンドがヒットし、コピーバンドも溢れかえっていた。
リクエスト方式の楽曲選びを採用していた私たちのバンドにもビジュアル系の楽曲は多くリクエストがあった。
そんなこともあり、目に留まったギターがhideモデルのイエローハートというもの。今は亡きhideだが、当時はソロ活動の全盛期でビビッドイエローのボディに前面にあしらわれた真っ赤のハート柄はhideのファンでもなかった私に非常に魅力的に映った。
高校生の私にとっては高すぎるもの。
だが、なんとなくこのギターを手にすると自由になれるような気がした。
バイクやギターというものは何か「自由」というものを感じさせるようだ。
気付けば私は母に隠れて貯めていたお金を使ってギターを購入していた。
人生で最も高い買い物。今でもそのギターは手元にある。
そのギターで多くのライブや練習の時間を共にした。バンド仲間や友達たちとの時間を生み出した自分にとっては大切なもの。当時としては高すぎる買い物だが、投資効果としては青春時代をより良いものにしたツールとして有効な投資だったと思う。
青年期 高校の卒業
充実した学生生活も終焉を迎える。私は卒業するのが嫌だと思うほど高校生活は楽しかった。卒業するには専門学校への学費の問題がある。そして複雑な家庭環境をもつ私を支えていたのは楽しい学校生活だ。このバランスが崩れてしただ、まう事は私にとって心配の種だった。
まずは学費の問題を片づけなければいけない。
今更、大学に進学する学力もなければお金もない。ファッションの専門学校一択でいろいろと調べる。当時はインターネット普及もしておらず、情報を集めるのも大変だ。
行きたいと思うファッションの専門学校を調べても、どう考えても学費は足りない。自分が貯めたお金では到底届かない。
どうしたものか。借りるとしてもいったいどこから。
そんなとき、「夜間コース」というものに目が入る。
夜間学校は当時でも理解していた。なるほど。ファッションの専門学校でも夜間があるのか。働きながら勉強ができるのは私にとってうってつけだ。
そして学費が異常に安い。これは良い。
ただ、学割が利かなかったり、自宅から非常に遠い立地だったりと懸念はあったが、そんな贅沢は言ってられない。
だが、それでも3年間通う学費は現時点では足りない。働きながら通えるとはいえ、母からの搾取は続くだろうし、学割が利かないという事は交通費で多大なコストがかかることになる。月間で3万円ほどかかる距離だった。当時の私にとっては非常に大きい金額だ。
よし、じゃあ自宅と学校の間にある交通費が出るアルバイトを探して、節約をしよう。アルバイト先も極力学校に近い方が良い。交通費の節約になるのであれば致し方ない。
だが、それでも計算して足りない。扶養家族の問題があるからだ。
そして、最も避けていた選択を取ることに決めた。
祖父母にお金を借りるという選択だ。
祖父母は厳格な人たちで、なかなか付き合いにくい性質だった。母からもネガティブな話をたくさん聞かされ、近くに住んでいたものの極力かかわらないようにしてきた。
そして専門学校に行くという事は祖父母にとって恥以外何物でもない。私の一族は有名大学を出て国家公務員や銀行、教員などお堅い職業に勤めているものばかり。専門学校に行くなどなんやかんや言われるのは間違いなかった。ましてやファッションの専門学校だ。到底理解はされないだろう。だが背に腹は変えれない。何を言われても行くしかない。そう思い祖父母にアポを取り、祖父母の自宅に向かった。
祖父母は厳しい面持ちで
「久しぶり。最近はどうだ」
と聞く。
近況を話し、ファッションの専門学校に行きたい、学費が足りない、援助してほしいという旨を伝えた。
祖父母は明らかに嫌悪感を示した表情をし、予想通りの言葉を私に浴びせた。
「ファッションの専門?大学にはいかんのか?そんな学校に行ってどうする?大学に行かない人間など家系で聞いたこともない。恥ずかしい。」
予想通りの言葉だった。だが、後には引けない。家庭の経済状況や夜間の学費の低さ、高校でのアルバイト生活を説明し、何とか貸してほしいとプレゼンする。
そうすると祖父母の表情がまた違う曇り方をした。
「わかった。じゃあ借用書を書け」
と言われ、借用書を書き、3年間で返済する約束をし、拇印を押した。
お金を借りているのは私だ。贅沢を言う立場ではないのは理解しているが、祖父母にお金を借りるのに借用書を書くというのはかなりショックだった。そこまで信用されていないのか。
何故借用書まで書かされたのかは20年後、母の死の直前に明らかになるのだが、当時母が祖父母に借金をたくさんして全く返さない現状が続いていたらしい。その時はそんなことは全く知らず、私に対して信用していないのだと認識していたのだが、母はすでに祖父母からの信用は完全に失っていたわけだ。
こうして、学費の調達はめどが立ち、夜間のファッション専門学校に進学することが出来そうだ。
経済的にまとわりつく家庭の問題。それを今まで支えてくれた学生生活が変化する。一抹の不安を抱えながら、高校の卒業を迎えた。
自己紹介③に続く