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おひさまを釣る

今住んでいる家には、小さな女の子がいる。
3歳になったばかりの彼女は、毎日、新しいことができるようになってゆく。

彼女はまず、じっと世界を見つめる。耳を澄ます。そして、口で、手で、身体で、真似をしてみるのだ。

例えば、綴りも知らない英単語。意味などわかるはずもないラブソング。ギターを弾く前に腕まくりをすること。
隣に座る大人がりんごを齧ると、自分も同じようにりんごを欲しがる。私が腰に手をつきながら階段をのぼれば、同じように腰に手を当てながら、彼女には大きすぎる一段を、一生懸命ちいさな足を振り上げて進もうとする。

見聞きした言葉や仕草を試しては、自分の行動に対する周りの大人の表情をよく見る。
「これ美味しくない?」
同意を求められるように聞かれたとき、彼女は首を横に振ってみた。
「え、美味しくなかった?」
もう一度、首を横に振る。
「美味しい?美味しくない?どっちかな」
じっと大人の顔を見つめる。
「おいしい」
ぽつりとつぶやいた。
彼女は周りの人間と同じようなやり取りを繰り返し、数日後には、否定疑問文への答え方をおおよそ習得したのだった。

3歳のつたない言葉は、ときにはっとするほど美しい。

彼女はご両親に内緒で、私の部屋で遊ぶのが好きだ。いつも抜き足差し足でやって来て、コンコンと2回ドアをノックする。
いつ入ってきてもらっても構わないので、常に鍵は開けてある。

私の部屋におもちゃはない。代わりに、何の変哲もない道具たちを別のものに見立てて遊ぶ。ヘアワックスは "おくすり"。有線イヤホンは聴診器。アイシャドウブラシは魔法の杖になる。

ある日彼女はデスクに置いてあるシェーカーボックスを漁っていて、1人分の紅茶を煮出す小さなストレーナーを見つけ出し、まじまじとそれを見つめていた。
ステンレス製で、チェーンの先に丸いボール型の茶漉しがついている。

おもむろに上下に振り出した。何か言っているが、よく聞き取れない。
「何をしているの?」
私が尋ねると、彼女は片えくぼの可愛らしい笑顔を浮かべた。
「おひさまを釣ってるの」

おひさまを釣る (fishing the sun)。
チェーンを釣り糸に、ボールを太陽に見立てたのだろう。しかし数時間しか太陽が昇らない冬がもうすぐそこまでやって来ている今、それはとても魅力的な言葉に聞こえた。

毎日新しいことを学ぶ彼女を、私は心から尊敬している。
彼女はつい最近この世界にやって来たばかりで、まだまだできないことがたくさんある。その分、大人よりも成長余地が多く残されている…とはいえ、それは誰にとっても等しく大変で、素晴らしいことに変わりはない。
そして何より、話に聞く3歳だった頃の私よりも、彼女はずっと素直で優しい子なのだ。

小さな子供の前では迂闊に変なことをしたり言ったりできないな、と日々気が引き締まる。
同時に、もし私がカナダで育っていたら何を吸収していただろうか、と彼女の姿に重ねてぼんやりと想像してみる。

まず、確実に今よりも英語はできただろう。
しかしながら、これまでたくさん触れてきた映画や古典文学、芸術に関する記憶が無に帰すのは惜しい気がする。
それでも、生まれた国で「自分は正しくない存在なのだろうか」なんて悩まずに生きられたかもしれない。

日本の社会的な規範に影響されて重ねてきてしまったある種の経験によって、私はどっちつかずの 「ならず者」になってしまった、という後ろめたさが心の片隅にずっとある。
ここカナダで生まれ育ったとしても、やっぱり私は今と同じ指向を持つ人間だったのだろうか。

原因は環境なのか、はたまた私という人間にプログラムされた仕様だったのか。
古典的なその問題に答えはないと知りながらも、それらしい言葉を求めて、問いかけの湖に釣り糸を垂らしている。
その水面にはまだ何も見えていないけれど、何もかもが新しいこの土地で、私はのんびりとその釣果を待ってみたい。

そして何より、太陽みたいな彼女の未来に多くの幸あれかしと日々願ってやまない。


<2024年10月11日>

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