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まだ「誰か」としか呼べないけれど――小松未歩「I~誰か...」

はじめに

こんにちは、2000年前後のbeing作品の歌詞の解釈について書いている「品川みく」です。思春期の頃から20年間愛してきた曲たちが、時が経つにつれ私の中でどのように変化していったのか、解釈の変化をお楽しみいただけると嬉しいです。
今回は、「I~誰か...」(2004年)について書きます。

18年前の解釈:まだ立ち直れないけれど私も懸命に生きようと思う

この曲がリリースされた2004年10月、歌い出し、「色のない街を歩いていた」のワンフレーズだけで、私はこれが死別の曲であるとピンときました。小松未歩と同じGIZAから出ている上原あずみの「無色」(2002年)が連想されたのです。上原あずみの「無色」は愛する「君」が亡くなった後の世界が色を失っていく様を描き、最後は「君」にどうしても会いたいと願うあまり、後追い自殺を示唆する表現で曲を締めています。

では、小松未歩が描く主人公は色を失った世界にどう立ち向かっていくのでしょう。

「人の愛し方を忘れ」て、君とともにあることで形作られていた「自分」が何者かもわからなくなります。「響く鼓動もムダに思える」くらい生きる意味に疑問を持つことさえありました。

けれど、「君」は自分に教えてくれた。「人は生まれ散りゆくまでの人生(とき)を懸命に生きて足跡残す だから夢や希望が輝く」と。だから私も懸命に生きなくては。でも、そう教えてくれた、「君」だけがいない。「君」とずっと一緒に生きて生きたかった。「これが夢の途中ならいいのに 冗談だよって笑わせて欲しい」と今でも思ってしまっています。
 
まだ立ち直れてはいない主人公、君がいない世界で生きる意味に疑問を持ちながらも、でも君が教えてくれた言葉を大切にして生きようとは思えている。
まだ色のない世界で、「誰か」を求める叫びは「懸命に生き」ようとする希望の現れ、なのかもしれません。
 

現在の解釈:再出発のときはすぐそこまで来ている


 
当時この曲で腑に落ちなかったフレーズが一つありました。それは「人の愛し方を忘れてこみ上げる想い殺した」。というもの。「人の愛し方を忘れる」のはよいとして、「殺し」てしまった「こみ上げる想い」とはいったいなんだったのでしょうか。
 
それは、もしかすると、「自分に向いてくる好意や愛情に対する想い」だったのかもしれません。
 
「心 躯 揺さぶられることが煩わしくて このまま消えたい」というのは、当初は「君」が亡くなったことにより感情を揺さぶられていることを言っているのだと思っていました。けれど、これも、最愛の「君」を亡くしてしまって新しい愛など求めはしないと思っていたのに、自分に寄せられる好意に心や躯(からだ)が揺さぶられ、戸惑っていることを表しているのかもしれません。
 
まだ、自分の心は「君」のもの。この悲しみをまだ背負って生きていたい。自分に好意を寄せてくれるその人のことをまだ、「君」や「あなた」と呼ぶことはできない。だから「誰か」と呼んでいるのだけれど、でも、その「誰か」に自分の存在意義をしっかりと伝えてもらいたいと思っている。再出発の時はすぐそこまで来ているのではないでしょうか。
 

おわりに:7月25日をお楽しみに


 
歌詞の解釈に正解はありませんが、長年この曲を聴きこんできたファンが、それぞれどのように解釈したのかを知るのはとても楽しいです。お互いの解釈を知ることにより、何年経ってもまだまだ新しい発見があります。

この「I~誰か…」1曲について、note仲間のえいちびぃさん、花の砂時計さん、そしてtwitter仲間のまこさん、のりさんと私の5人で1時間語るラジオ企画をtwitterのスペース機能を使って開催します。

放送は、7月25日(月)22:40~23:40。ご都合がつかない方も後から1か月ほどは録音を聴くことができますのでご安心ください。もしちょうど都合がつく方は、ぜひリアルタイムで「#I誰かナイト」をつぶやきながらご参加ください。

それでは、また。お会いできる方は、25日に、よろしくお願いします。