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恋に恋しているようでは、星の宿る愛までは遠い~小松未歩「夢と現実の狭間」

こんにちは、2000年前後のbeing作品の歌詞の解釈について書いている「品川みく」です。
今回11月28日(火)22:30~23:30に開催予定の #夢と現実ナイト に向けて小松未歩「夢と現実の狭間」(2000年)について書きます。

私はこの曲に、恋に憧れはあるけれど、なかなかうまく続かない男の子の姿をイメージしました。

この曲には、「君」や「あなた」など、相手を呼ぶ二人称が出てこない。花の砂時計さんが面白いところに目を付けました。

“「僕」以外に出てくるのは遠くで呼ぶ「誰か」”だけ。花の砂時計さんは、それを“さよならしたとか言ってるのは空想上の存在か、あるいは思い出の中にある片想いの人物だったり、そういうぼんやりとした、それこそ夢と現実の狭間にしか存在しない人”と考えていましたが、私は、まだ見ぬ、理想の恋人の姿なのではないかと思いました。

まず1番の歌詞、
「泣き濡れた枕元で」とあるのは現実の自分の姿。
そんな僕に、「誰かの呼ぶ声が」聞こえて、
その誰かは「優しく抱き寄せて 甘いキスくれた
夢心地の中では そう感じた」のでしょう。

なぜ泣き濡れているかというと、2番の歌詞に「さよならは本当だったと」とあるように、彼女と別れることとなってしまったからでしょう。
別れた彼女が戻ってきてくれるのなら「誰か」とは呼ばないでしょうから、「誰か」はまた別の、傷ついた僕を癒してくれる違う女性のことなのでしょう。

でも、夢から覚めてみるとそれは幻覚であったことに気づきます。
実際には、僕の言葉が彼女を傷つけてしまい、別れの最後の引き金を引いてしまったのでした。

2番のサビに
「僕を奮い立たせる想いは強く純粋だから
コントロール出来ないことを 許して欲しい」
と歌っていますが、その純粋な想いというのは、彼女の人間そのものというよりは、恋に対する憧れやイメージに対して持っているものなのかもしれません。

付き合い始めはその勢いに押されることがあっても、次第に自分自身のことを見てくれないことに「心の温度差」が開いてしまい、「間違いから火が付く」ことを願うくらいしかできなくなっていったのでしょう。

それでもやはり、恋愛は素敵なもの。片時でも思いが通じたのなら、夜が明けたような思いをしたことでしょう。

「星の宿る愛はつまづきながら見つけてく」。
一度目、二度目の恋がなかなかうまくいかないのは、恋愛に対するイメージが先行して、なかなか自分の気持ちを整理できず、相手の人間そのものと向き合うことが難しいからなのかもしれません。

「今度は本当になれ」と願う僕。
恋に恋しているようでは、まだまだ「星の宿る愛」は遠いかもしれません。

私はこんな風な主人公をイメージしましたが、果たして他のスピーカーはどんなストーリーを思い描いたのでしょう。
それでは、ご都合つく方は、11月28日(火)22:30~23:30にお会いしましょう。