君が誰を好きでもやっぱり僕は君を好きなんだ―GARNET CROW「恋することしか出来ないみたいに」
すっかり肌寒くなったこのごろ、いかがお過ごしでしょうか。
町中はオレンジ色から深い赤に、そして木枯らしへと変わってしまいました。
少し乗り遅れた感じもありますが、
今回はGARNET CROW「恋することしか出来ないみたいに」(2003年)を紹介します。
はじめに
私は2000年ごろ10代で、現在は30代。10代のころ好きになって何百回も聴いていた曲も、いま改めて聴くと以前とはだいぶ違った感じに聴こえてきます。私の場合は歌詞の「物語性」に特に着目しており、この曲はいったいどういう物語を描いたものなのか歌詞を解釈していくことが当時からすごく好きでした。20年の人生経験を経て、一つの曲の解釈がどのように変わっていったのか。その変化をお楽しみいただければと思います。
18年前の解釈:たとえ実らなくても君のことが好きなんだ
この曲の歌い出しは「町中オレンジ色に染める秋空加速してゆくサイクリング」とあり、情景をとても思い浮かべやすくなっています。
ただ、2番Aメロに「群れから離れ少し不安気に同じ距離を保つ」とあるように、このサイクリングは僕と君の二人きりではなく、数人の仲間で行っているようです。大学の同じサークル、あるいは職場の同期といった感じでしょうか。
秋空が美しいサイクリング。突風が吹いてよろめいて倒れるシーンもほほえましい。
君といると世界がどこまでも美しく広がって見えるようで、僕はまるで君に恋することしか出来ないみたい。
けれど、この曲には楽しい光景の中に切なく儚い歌詞も散りばめられています。
まず1番サビの「君が誰をみてるとしても変わらずに大切にしてゆこうって思えたんだどんな形でも」という歌詞が、君が僕を見ておらず、誰か別の人に恋をしている可能性を思い起こさせます。
Bメロは1番も2番も楽しい光景を描いた後に「あぁ 瞬きの間はどんなんだろう」
「あぁ きっと今日は追い越してしまうんだ」とため息をつきながら思いを馳せます。
「瞬きの間はどんなんだろう」は、はちまるさんが下記の記事で詳しく解説しておりますが、自分が瞬きしている(つまり自分が見ていない)間、君はいったい誰をみて何を思っているんだろう、ということを考えているように思います。
「あぁ きっと今日は追い越してしまうんだ」は、自転車で追い越すという意味と、関係性の上で「追い越す」ということを重ねた表現でしょう。今日にも君は誰かと付き合ってしまうかもしれない。どうもこのサイクリングのメンバーの中に君の思い人(と思われるような人)もいそうな気がしますね。
いよいよ寒くなり、街はイルミネーションで彩られ、まるでくっつけと言わんばかりに恋を急かしてくる季節がやってきます。この恋は実らないかもしれない。でも、僕は君のことが好きで、この気持ちを大事にしていきたいんだ――。
当時大学生の私はそんな感じにこの曲を聴いていました。
恋愛以外でも男女の関係性はいくらでもつくれる
それから18年が経ち結婚して子どもも持った現在30代の私は、この曲が当時とは少し違って聞こえています...が、解釈をお話しするまえに少し私自身のことをお話しします。
私はここ数年、関係性が近くなった異性の友人を「好きになること」が増えてきた気がします。私は異性愛者(の男性)ですので、異性(女性)のことを性的に魅力的だと感じる気持ちはもちろんあるわけですが、だからといって、好きになった異性と「浮気や不倫」のようなことをしたいと思っているわけでもありません。
これは何かというと、「恋愛に多くのものを求めすぎていた反動」だと思っています。恋する人と夢を追いたい。その人といるときは目指すべき自分でありたい……。そんな恋愛観を持っていた私は、恋愛相手やその候補となりうる異性に対して多くのものを求めすぎてしまい、それらすべてが得られないと思うと、異性に対する興味がだいぶ薄れていました。このため、本気で好きになれる異性と出会う機会はごく限られてくるのですが、一生のうちに運命の一人と結ばれればいいと考えれば、こういう恋愛観もありなのだと思います。
一方で、他の異性と得られたかもしれない関係性を失ってきたなとも感じています。一生添い遂げることを目指すだけが恋愛ではないわけですから、ちょっといいなと思った相手同士で片時を共に過ごす、そんな経験を重ねることも、今ではそれはそれで素敵なものだと思います。また、そもそも恋愛関係でなくとも、男女がつくる関係にはいろんなかたちがあります。
今振り返ってみると、結婚して安定的なパートナーを持ってから、「恋愛」を求めないからこそ異性と関係を作りやすくなったのではないか、という気がしています。「恋愛」という排他的で支配的になりうる関係を持ち出さないほうが、むしろお互いに求めることを自由に組み合わせて望む関係を作りやすいような気もします。
恋人になりたいと告白した相手に「友達としてなら」と言われて振られたとき、10代のころの私は、まるで恵みを施されたかのような屈辱的な気持ちを持ちました。けれど、もしこれまでの人生経験の記憶を残した上であの頃に戻ったならば、「ちょっと残念だけど、でもありがとう。友達として君とやってみたいことがいくつかあるんだ」などと話しかけ、そこからつくれる関係性に希望を持っていたかもしれません。
現在の解釈:君が誰を好きでもやっぱり僕は君が好きなんだ
さて、曲の解釈に戻ります。
私が解釈するところでは、GARNET CROWの曲が描く曲には「人と人がつくろうとする関係性にはいろんな形があり、その営為は、どれも尊い」という価値観が貫かれています。
この価値観を踏まえると、現在の私は「恋することしか出来ないみたいに」では、僕は君が他の人のことを好きであり、かつ、その恋が成就しようとしていることを十分に分かっていたのではないかと思っています。そのうえで、「どんな形でも」「君が誰をみてるとしても変わらずに大切にしていこうって思えたんだ」と歌っているのではなないかと思います。
もちろん君と僕とで付き合えたらどんなに幸せだろうとは思うものの、君が他の人との恋をかなえるのだとしても、それでもなお僕は君が愛しいし、世界が美しく見えることに変わりはない。それなら君を好きなこの気持ちはずっと大切にして、どんな形であっても君との関係性は大事にしていこう。
明るさのなかに切なさを残す。切なさの中に希望を残す。今の私はそんな感じにこの曲を聴いています。
おわりに:はちまるさん、りーぬさん、HBさんに感謝
歌詞の解釈に正解はありません。私の解釈もその一つに過ぎず、どういう解釈をするかは自由ですが、私の場合は、時間を経て経験を経て同じ曲が違ったものとして聴こえてくるその変化がとても面白いです。
また、それぞれのファンが作り込んだ世界観を知ることで、楽曲の世界が広がる瞬間もとても楽しいです。
本記事は、はちまるさん、りーぬさん、HBさんが「恋することしか出来ないみたいに」に触れていただいたことに触発されて書きあがったものです、このお三方にはとても感謝しております(はちまるさんの記事のリンクは先に載せましたので、最後にりーぬさん、HBさんの記事のリンクを紹介させていただきます)。
ひとりでもふたりでもこういう話を面白いと思ってくれる人がいたら、ぜひコメントをいただけると嬉しいです。それでは、また。