偏見と浪曼


 恋をするというのは相手に対して一定以上の「思い込み」を持つことに違いない。つまり〈偏見〉である。
 そして偏見が許されない今日の社会は、同じように恋が禁止されている。すくなくとも私は、ここ何年かの社会の動きを見て、そう考える。
 そもそもそういう「思い込み」は恋ではないと断ずる堅実なリアリストもあろうけども、周知のとおり、人は他人にどう見られているかがすべてであるし、相手の現実のところを正確に把握することなど決してない。人は色眼鏡でしか世界を見ていないし、当初の思い込みが一定以上失われた先で、勝手に相手に幻滅し、勝手に相手と何も共有できていなかったと感じる。そういうものであると思う。

 いま誰も彼も偏見というものをなくそうと躍起になっているが、どうやらバイアストレーニングなるものがすでに存在しているらしい。これは科学者の方たちが諸手で礼讃するものだろうか? しかし、無意識の偏見というものを当人に気づかせることは、物事を本質的に解決しはしない。バイアスというのはしばしば、単なる「誤解」ではなく、フェティッシュ(物神崇拝)に関わっているからである。

 たとえば恋愛関係に「思い込み」を持ち込まないようにしたら、次のような関係を理想と思うかもしれない。《一部の人の恋というのは、その相手の像に、自分の願望や存在理由が投影されているから良くない。そうでない関係とは、自分の願望や観念を何も相手に期待しないということだ。より相手の社会的条件を見ないで、誰もが同じように表現するところまでで、相手の人物像を留める。そして他の人と平等に扱う。もちろん相手にも自分をそのように扱ってほしい》と。
 それはじっさい聡明である。つねに誤解の余地を減らすように「リスクヘッジ」されている。相手が不快な思いをすることがないように―。
 もちろん、誤解なく互いを認識し合うことが恋だという個人がいてもよい。しかし、多くの場合、恋をする人は、むしろ自分だけが社会の一定の、妥当な、価値判断から相手を救い上げ(相手に救い上げられ)、特別なものとして見出した(見出された)ことを信じたいだろう。それは半ば乱暴で不平等な救済と呼ぶべきだ。
 つまり「思い込み」とは批判に違わず暴力的であるが、それは恋の場合も、〈社会〉を問題にするのである。〈社会〉があった上で、その「外」へ二人だけで出ていきたいがために成り立つバイアスなのである。そうした思考の構造をロマンと呼ぶのであり、あるいは巷のビジネスマンから高校生まで、人はロマンがなければないで大概不満を漏らすものである。
 社会の紋切り型に当て嵌めることが「バイアス」という今日の社会問題だとすれば、その紋切り型を利用して捨て去るのが「ロマン」であり、恋の成り立つひとつの道理かもしれない。ゆえにこの「バイアス/ロマン」とは、ほとんど表裏一体で、多くの人のもとめる人生の条件を形づくっている。それは言葉の問題でありながら、血と性と金とに、深く関わろうとする。

 バイアスを除かねばならぬという急き立ては、もともと人種や性の差別を社会から無くさねばならぬという要請に基づく。そして多くの場合それは、ただの「誤解」のように語られている。ただ無知な人がいるだけで、教えてあげればわかるというように―。
 しかしただ誤解が指摘されたとしても、人は差別的感情を除くことができるわけではない。これはただの誤解ではなくて、フェティッシュだからである。もっとも、こういってなにか難しい言葉の定義を振りかざすつもりはない。それを理解するのが決して難しいことではないと言うのは、まさに恋をしているときの気持ちを考えればいいからだ。
 恋をしている最中に、人は本当に馬鹿になっているかといえばそんなこともなくて、それがかなりのところ、自分の思い込みによってできあがっている感情だということを、自分自身でよく理解している。片思いにしろ、DVにしろ、人は自分の思考の一方向性に気づけないほど馬鹿ではない。それどころかだいぶ自分を疑うのが常だ。ただ、それにもかかわらず、相手への吸着が止まらないものだ。
 これは差別もまた同じなので、ある人種や異性への意識が、自分の思い込みによって形づくられていると自分で理解したとしても、その感情を抑えられるわけではない。それは自分の感情を投影するに値するほどの象徴的実体を伴っている時点で回避できない。喩えれば貨幣と同じだ。人は紙幣をただの紙だと知っているが、決してそれを破くことはできない。それを店に持ち込めばしかじかの物品と交換できると、全く疑いようもなく信じられるからである。フェティッシュ(物神崇拝)とはつまりそういうことだ。

 あるいは女性差別がなくならないのは、原理的には、女性が多くの男性にとってフェティッシュ足りうる存在だからである(逆も然りであり、「逆差別」などと言うが、男性差別自体も現にある。ただ女性差別のほうが社会全体にとって深刻であるということだ)。そしてそのフェティッシュのことを、ある場合に人は「恋」と呼ぶ―それが「男」にとってどれだけ都合のよい言葉だとしても―。それは容姿だとか経済力だとかなんらかの条件を好むものではない。ただその「物」としての存在に、自分の存在や主張の意義や立脚点を賭けてしまう重々しいものだが、賭けられるほうとしてはたいがい困りものに違いないし、あるいは偏見だと言われ糾弾されるのも道理ではある(奇跡のように、互いが互いをフェティッシュのように扱っていたら話も違うだろうけれど)。

 つまりバイアスというのはひとり人間の単なる「誤解」ではない。あるいは人間の歴史と、社会の在り方すべてに関わっているので、嘘だとわかっても簡単に取り除くことができない。
 ときに、バイアスを批判する人が自身の主張を原理的に行ってはいないように見えるのは、それをただの「誤解」として扱い、フェティッシュとしては考えていないようだからである。もしそれが悪いというなら、貨幣も、天皇も、あらゆるフェティッシュとして社会を構成しているものをも、同時に批判すべきだろうが、こう述べて私は、フェティッシュを悉く排除せよとは必ずしも言わない―それこそ神経症的フェティッシュというものだろう。少なくとも恋ができる程度には、人は誰かのことを「思い込み」で好きになり、嫌いになることが宿命的にあろうし、場合によってはそれが、人を深く傷つけるだろうという万古不易の人間模様を思うだけだ。しかしそんなことは、ミイラ取りがミイラになるようにして、ハラスメントやポリティカルコレクトネスに関わる問題を起こすこの状況をみれば、誰でも考えることに違いない。

 私はこの「バイアス/ロマン」的なものを無くすことができると思うこと、また人にそれを無くせと強要すること、あまつさえなんらかのプログラムにかけて洗脳することが、人間性に対する傲慢だと考えるのである。認識論的な人ほど、この誤りを犯すような気がしてならない。まるで、誤りを犯さない他者関係が可能であるかのように。あるいはそのように問題が無くなったように見えるだけの状態こそが一番の地獄に違いない。そのような咎を受けず、正当にある種の「言葉」を扱ってよい、他者のいない「囲い込み」の場所、自分は差別的な言葉を口にしてないと固く信じられる場所、を作ること自体の問題を問われるべきだ。その「囲い込み」とは言うなれば、天皇制や資本主義のような「囲い込み」の中の「差別」は正当なものとして容認する、ということに帰結するからである。
 近代の文学はこの「バイアス/ロマン」を人間の本性として描きつつ、批判を重ねてきた。それへの享楽と共にである。なぜなら実人生は概してバイアスのみで終わって、ロマンには至らないのであり、それをロマンの形で享楽化すること自体、またその「業」を批判対象として可視化し続けること自体が、社会をそれとなく倫理的、説話的な思考に導きもするからである。

 以上、今日、他でもない文学に就く者が、このことを放擲しているように見える情勢につき、私のようなただ末席を汚すだけの者があえて書く。

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