文体を失った批評
論理の硬直さに抗って、それをなし崩しにしてしまうような書くこと自体の「むずがり」というものが、その意味するところを容易には人に知らせまいとする。その難渋さは重要なのだ。文体とは自分の「論」への抵抗ー批判なのである。
その難渋さが論説的文の文体として担保されない場合にこそ、文が非常に教条的に響き、書き手としてどう見られて在るかという自意識を遠ざけてしまう。まるで正しければ読むだろうという具合に。
彼には論理の継ぎ目にある欠落や、反証可能性ばかりがチラつき、論じている「私」自身の徹底してpassiveな、「負ける」美意識というのが欠落してしまうのである。文体とはこの「負ける」美学とそのむずがりをおいて他にないと私は考えるのである。
そして、その美意識の欠落は須く、言論者が一定以上弁えずにはすまない「倫理」をも放擲さすだろう。
すくなくとも、あるところまで文芸の批評とは、誰かを正当に裁きうるかどうかわからなかった。むしろ必要以上に悪を犯してまで、何かを(あるいは自己を)肯定しようとする無理無体のビラのごときものと呼ぶほうが、いっそう身の丈にあっていたような気がする。いわば救い難き有罪性の弁護ならざる弁護である。いまの世に文を書く人はみな、自分のことを冤罪被告人かなにかのように書かねばならぬ必要に迫られるだろう。その冤罪を晴らすために、今もこれからもずっと疑いなく存在している自分のこの論理は、読んでくれさえすればきっと誰かにわかってもらえる、という気かしれないと、自分で呆れずにはいない。求められている文の簡潔性とはそれではないと言えるだろうか。
私は、文学の論理は、冤罪被告人の真理のための答弁とは訳が違うと思っている。それは最初から有罪であり、なんなら他者に自身の有罪性をより深く刻み込み、より強く裁かせるためのテロリズムとして存在しているのである。なにしろそれは、誰かにわかってもらえなくたって、現に存在しているのである。
何かを無罪化することは少なくとも文芸の道ではない。それはただ社会学の道であるにすぎないし、ただ社会をマネジメントする者のためにしか存在していない。しかしその社会学的な文学の無罪化・簡潔化・有益化に就くものへと、文学自体を新しく更新しなければならないという要請がいま、文学と文芸批評の場で一等の支持を集めるなら、言うまでもなくただ無名である私が「文学」を辞めればいいだけである。なにしろ、人間の有罪性を有罪性と自覚しながら同時に弁護する嘘つきであることを持続すること、存在しているものをただ存在していると言うこと、この二重性を、私はいまここで書き手としての職業的「倫理」と呼ぶのであり、これを守ることに比べれば「文学」という大文字の甲板の下にいることは何らの意味ももたない。
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