生きる意味とは

 多くの人が、生きる意味とは何かという
 思春期だけでは終わることの出来ない哲学を模索している。
 そして、誰もが苦しみを感じている課題。
 生きる意味とは至極簡単なことで『死なないこと』。

 現代日本では、死ぬことが非常に難しい時代に突入している。

 新しい命を作るのは簡単だが、死ぬのが難しい。

 この矛盾が人々の生存本能を壊している、

 生存本能とは、生きるために必死になること。
 医学的に言えば、高ストレスを感じること。
 これによって何が起きるかというと、脳内で神経伝達物質(俗にいう快楽物質)を分泌することβ-エンドルフィン、オキシトシン、セロトニンといった多幸感を感じること。

 多くのセレブ層と言われる金持ちが、余るほどのお金を持っているにも関わらずどうして、大きな課題に対して挑み労働をし続けるのか、身体を鍛えマラソンなどを続けるのか、筋トレをするのか、あり得ないほど高級食材を食べて太るのか、これら全てが上記に上げた神経伝達物質を分泌することが出来るからである。

 お金があり余って何でもできるセレブ層ほど、ドラッグに手を出すのは、ドラッグを使うことで、その神経伝達物質を大量に強制分泌し多幸感を簡単に得ることが出来るからである。

 これには問題があり、動物はこの多幸感に比例するほどの疲労が必要になり少量のドラッグでは満たされなくなる。
 そのため、ドラッグで多幸感を得る場合、量を増やし続けなければ多幸感というのは感じることが出来なくなる。そのため依存しまう。

資本主義の弊害は、幸せの尺度をマイナスで考えること
(自分に足りないもので考えること)

 現代の世界は、資本主義で成り立っているが故に多くの人が、お金があるかどうか、もっと分かりやすく言えば、自分に足りないもので幸せの指標を計ってしまいがちである。
 「XXがあれば」
 「XXが欲しい」
 「XXが足りない」

 もっと言えば、

人間関係、仕事、地位、信頼などで、自分の幸せの尺度を決めがちである。

・自分と誰かを比べて不幸を感じる。
・自分にはないものに不幸を感じる。
・自分の欠点に不幸を感じる。

 日本社会の教育により、これらは競争心に繋がると思いがちだが、そんなものには繋がらない。
 競争心とは、そもそも成功体験による幸福感が必要であり、人はマイナス方向に考える。

 足りないもの = もともと自分が得ているはずのもの

 という考え方である。
 達成感よりも今まで得ることが出来ていなかったという不幸に繋がっていく。

 簡単に言ってしまえば、”マウントをとって論破すれば自分が幸福になれる。”という勘違いが蔓延しているということである。

 何かを新しく手にすることによって幸せを感じるのではなく。
 既に手にしていることで幸せを感じることが大切。

 先に言った話での多幸感(脳内で神経伝達物質で得る幸福感)は、その瞬間のためだけの行動では継続性がない。何かによる刺激で感じる幸福感は、そもそも一時的なもであり、継続的に多幸感を感じるためには何かしら刺激的なことに挑戦し継続する必要がある。

 運動、スポーツ、山登り、旅行、もっと言えば、バンジージャンプやジェットコースターやスカイダイビングなどのような身体・命に危険を感じるようなこと。

 もっと分かりやすく多幸感を得る説明の例するならば、
 資本主義社会において、身体・命の危険を感じる代表的なこととして、多くの人はお金がないと生きていけないと感じている。

 だからこそ、お金を賭けるギャンブル依存症というものがある。
 お金で人生を賭けることによって、刺激を得て多幸感を感じようとしてしまう。

ギャンブル依存症の人は、ギャンブルが出来なくて死ぬのではなく、借金苦で自死を選ぶ。

 日本では、誰かを害さなければ、お金がなくても生きていくことができる仕組みが作られている。(※正しい知識があれば社会福祉を受けられる。)

 だからこそ、現代の資本主義社会の中で幸せというのものを、マイナスの考え方で得ることは非常に困難である。
 ※命・身体を賭ける(お金を消費することで幸せを感じる)。

何かを賭けて得る幸せは長続きせず、すぐに燃え尽き、気がつかないうちに依存し、答えのない罪悪感を生む。

 物欲、人間関係、お金、地位、名誉、そういったもので現在、自分自身が何かしら悩んでいるとき。
 少しでも罪悪感を感じてしまうことがあるのなら、それに依存してしまっている。

「人生に足りていないこと。」「人生に必要なこと。」を考えることは簡単だからこそ、自分の人生を考えることから逃げていることに気が付けない。

 自分の人生について、未来と過去は考えることが非常に容易である。

 逆に、今現在の自分。
 なぜ自分が今ここに存在するのかを、分かりやすく論理的に言語化をできる人は存在する訳がない。

 ただ、簡単に口にすることが出来る幸福・幸せとは、ここでダラダラ書いたようなことが一つである。

 多くの人は、幸せと人生を結び付けようと必死になっているが、一度、冷静に考え直してみると、幸せは人生の一部ではあるが、医学的・科学的な事象の一つでしかなく。深く考えるようなことではない。

人生においての”幸せ”を考えた場合、それは人生を評価するための尺度ではない。

 誰もが、ときたま冷静に「今の人生は幸せなのか」的なことを考えるが、そんなことの行動に意味がない。
 人生がどんなことなのかと考えても、妄想の中での誰かの人生と比べたり、自分の過去と比べたり未来を想像したりする程度のこと。

 それは映画やドラマを観ることと大差のないレベルのこと。

今現在の自分の人生について長時間思い悩むときは、マイナスに感じるときだからこそ人生を悩むことは意味がない。

 そんなことを考える時間があったら、部屋の片づけやコンビニに甘いものでも買いに行った方がマシ。

 人生なんて自分ですら正しく評価できないものを思い悩んでも無駄。

 多くの人が勘違いしていることとして、生きる意味を、幸せかどうかという尺度を使って考えたがるが、それによって何かを生産されることはない。

 幸せという尺度を使った場合、「現在の自分が出来ていないこと」「自分に足りないもの」
 ”ある”はゼロ。”ない”はマイナスという評価をする。

人生の尺度に”幸せ”を使わなければ、生きる意味が分かる。

 再度、自分にとっての『生きる意味』を幸福・幸せという尺度を、絶対に使わないで考えてみるといい。
 そうすると、分かりやすい答えが出てくる。

 それが出来ないのであれば”不幸”なのではなく、
 今、初めて本当に『生きる意味』について向かい合っているのである。

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