見出し画像

ものづくりの師匠-#01 家具メーカーでの企画開発-

日本で有数の家具産地、旭川の家具メーカーである、株式会社匠工芸に入社する為に、大阪の大学を卒業とともに、2003年に23歳で北海道の旭川市に移住。

同期入社は3人。私以外の2人は、旭川高等技術専門学校と北見高等技術専門学校出身で、家具職人になるべく勉強をしてきていた即戦力。会社の募集内容は、工場での家具製作に従事する正社員。面接事に初めて木工の技術を専門的に勉強する学校の存在を知った。私の大学での専攻は、インダストリアルデザイン。

当時、就職活動ではデザイン職の新卒求人にエントリーしていて、ことごとく不採用だったこともあり、将来的にプロダクトをデザインをする為には、ものづくりの現場を知っておこうと職種の選択肢を広げて、私も未経験者ながら工場での家具職人を希望してエントリー。合否の連絡は電話でくるという。ありがたい事に合格の電話をいただけたのだが、ひとつ条件があると言う。事務所の社員が退職するので、そちらの方で働かないかとの打診。工場での家具製作では、技術専門学校の2人の採用を決めたので、工場だと不採用だと言う宣告だった。

いずれは家具のデザインを手掛けたい。と言う想いが強かったので、願ったり叶ったりなので二つ返事で入社させていただく事に。人生の分岐点のほとんどは、振り返ってみると、自分ではコントロールできず、その時々の偶然と運に身を委ねて、進む道を選択して来た。

当時、30人程の会社では、事務職は、社長、専務、常務、営業部長、総務経理課長、営業担当、総務経理担当者+新人である私の8名。

私は、当時の常務取締役兼家具デザイナーの中井啓二郎氏(現在は、中井啓二郎図案倶楽部主宰)のはじめての部下(弟子)として、企画開発という役割で仕事に従事する事になった。

代表取締役の桑原義彦氏は、技能五輪国際大会の家具部門で銀メダルを受賞した家具職人の間では輝かしい経歴の持ち主のであり、デザインも設計図面も描ける社長であった。

この2人が、私のものづくりの師匠であり、匠工芸での家具づくりが私の原点であり、彼らのDNAを引き継いでいると自負している。

匠工芸では、コンセプトとしてNatural&Craftmindを掲げており、桑原さんと啓二郎さんは、旭川の工芸デザイン協会の立ち上げメンバーでもある。家具デザイナーであり、クラフトマンでもある。旭川のものづくりの歴史を語るうえでは、家具と同等に、工芸とクラフトの活動と存在意義は大きい。

家具メーカーの現場では、当然、作ることが目的であり、なによりも優先される。旭川では、地域性もあり、特に家具問屋の力が強く、家具を売る、届けることは、自分達の仕事では無いと言う歴史があった。カンディハウス(旧インテリアセンター)を筆頭に、現在は、製造から販売まで手掛けるメーカーが増えてきているが、家具産地旭川の文化としてはまだまだ、ものづくりに特化した頑固さは残っている様な気がする。

さて、桑原さん、中井さんのもとで、最終的には、8年間在籍した旭川の家具メーカーでは、自社オリジナル製品のデザインを手掛けれる様になる迄に、商品受注の伝票起票から、工場の生産管理、在庫管理、製品の配送出荷業務、配達、資材の発注、修理品の対応、棚卸し、ショールームのレイアウト、ホームページの更新、カタログのディレクション、特注家具の営業・設計担当、売り上げ金の回収、既存の青焼図面をトレースしてCAD化、外部デザイナーの開発担当窓口、家具の設計図面の作成、などなど、多岐に渡って担当してきた。この一連の経験はデザイナーを目指す当時の私の理想のからはかけ離れており、当時は心折れそうになった事もあるが、若いときの苦労は財産になっており、現在、独立してから大いに役立っている。心残りは、実際に手を動かしてものをつくる事ができなかったこと。

インハウスデザイナーとしては、5、6年目にAZULというシリーズを手掛けており、ラウンジチェアは、カタログ製品としてまだ現役の様だ。

私が家具デザイナーと名のるのでは無く、別の肩書きを名のるのであれば、特注家具のコーデネーターだ。自身では職人としてのものづくりは出来ないが、家具メーカーでひと通りの雑務と特注家具の案件をこなして来たこともあり、ものをつくって貰うコミュニケーション能力は備えていると思う。また、ものをつくれないと言うコンプレックスがあるから、職人へのリスペクトを失うことは無いし、感謝する事ができる。また図面はデザイン図面だけはなく、製作のための家具の設計図、CNCでの加工用3Dモデルを描けることはが私の強みだ。

これは、家具メーカーである匠工芸で、ものづくりの流れをトータルに経験してきたおかげであると考えている。

いいなと思ったら応援しよう!