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セッションのスタイルについて思うことと、紙コマの話
はじめに:この記事の内容は自分の好みとか、趣味の履歴に基づく感覚の話であり、プレイスタイルの正誤や格式とは全く関係ないこと、およびこの話題での議論などを望んでいないことを申し上げておきます。
D&Dにおけるミニチュア
先日D&Dでのミニチュア使用に関するTwitterスペースの配信を聞いて、自分はどういうプレイスタイルが好きかなと改めて考えてみた。
まだD&Dを始めたばかりで特に知識もないのだが、ネット上でいろいろ見たり、中野の大まん祭で買ってみたガイギャックスの本を読んだりして、もともとミニチュア・ウォー・ゲームというものがあって、そこから部隊単位の戦術ではなくキャラクター個人の動向にフォーカスしたものとしてRPGが生まれたというような流れは理解した。
もともと発祥のベースがミニチュアゲームなので、ミニチュアの使用が普通であったが、今のD&D5版ではミニチュアの使用はあくまで選択ルールである、ということだ。
大掛かりなテレインを利用したセッションの様子などを目にすると感激するし、(ウォーハンマーはやってないのだが)塗料を買いにウォーハンマーストアに行ったりすると生きていて今にも動き出しそうなミニチュアの迫力に圧倒される。
一方、D&D5版においてミニチュアの使用が必須であるような誤解を与えることで新規参入者の敷居を高くしてしまう部分もある、というのもよくわかる。
自分が参加したオフラインセッションではミニチュアを使用していたが、戦闘中の位置関係などはわかりやすくイメージしやすかった。
逆に、会話と抽象戦闘で進行するオンラインセッションのアーカイブも視聴したが、物足りないなんてことはなく高揚感あり緊張感ありでとても楽しめた。
結局、楽しく遊べるかどうかのコアはそこではないのだろう。
さて、その上で私の考えはというと、「想像力の無限の広がりこそが究極の到達点であるが、同時にミニチュアを扱うおもちゃ遊びは最高に楽しい」である。
想像力の無限の広がり
人間の想像力は果てがない。今ここに存在しない音を聞き、映像を見、においをかぎ、人物や世界を作り出し、その中でなんでもできる。
TRPGのすばらしさはまさにそこで、できることにコンピューターゲームのような制限がないから、思うとおりに話し、動くことができる。
もちろん昨今の自由度も情報量もマシマシになったコンピューターゲームは映像も現実に近づき、行動の選択肢だって想像力の限界に近づいてはいる。
だが、ここで感じるのが「不気味の谷」みたいな現象で、できることが増えれば増えるほどできないことが、現実感が増せば増すほど現実ではないことが際立ってしまう。
昔のファミコンのドラクエをやっていて、このクエストは受けたくないのに断れないとか、NPCを攻撃できないとか、この何もない平原に建物を建てたいのにそれができない、とか文句を言いたくなることはないだろう。
しかし、昨今のゲームになってくると、目の前に存在しているかのような恐ろしいモンスターを打ち据えて体温を感じそうなほどリアルな血しぶきが上がるのに、そこらの草花の1本も摘めないのがなんだか可笑しくなってくることがある。そんなことは当然なのだが。、それでも現実味が増すほどに根っこではプログラムに縛られていることを意識してしまう。
そこをいくとTRPGは自由だ。もちろんゲームシステムにもルールや制約があるが、草花を好きなだけ摘めるし、動物を飼いたければ好きに飼い、建物を建て、NPCの町人に同行を申し出たり、商人に交渉を持ち掛けたり、恐ろしいモンスターの首魁を説得して和解できるかもしれない。そういうあたりはTRPGはおそろしく融通が利く。
(誤解のないよう書き添えておくが、私はコンピューターゲームに産湯を使い、姓はコンピューター、名はゲーム、というくらいゲーム好きなので非電源が至高!みたいな思想は皆無)
で、私の持論としては、そういう想像力の翼を広げる上で、様々な視覚情報や音はマイナスになることがあると思っている。
このあたりの感覚の違いはそれぞれが親しんできた娯楽にもよるだろう。
私は文字だけの本がいちばん自由だと思っている人間だ。
文章によって想起される創造には限界がない。人物の顔も風景も音もにおいも温度も全てが脳内で再現されていく。そこには映像技術上の表現の限界も、プログラム上の限界も、映倫の審査もない。
これが絵本になったり、オーディオブックになったり、映画になったりすると、それ自体はすばらしい作品だとしても、それぞれ創造の余地は原作と比べて失われている。
ミニチュアやテレインの使用もそういう部分があり、臨場感や把握のしやすさ、共通の理解の作りやすさと引き換えに失われているものは確かにあるのだと思う。
これはオフラインセッションとオンラインセッションの違いとも同じで、どちらが正しいとか格が上だとかではなく、それぞれの長所短所があるのだ。
というわけで私の思いとしては、人間には想像力というとてつもない武器があるのだから、それをあまり制限したくないというのがベースにあるのだ。
おもちゃ遊びはめちゃくちゃ楽しい
と同時に、ミニチュアというおもちゃ遊びは、間違いなく楽しいのだ。ミニチュアを作ったり塗ったりすること、所持すること、眺めること、それを使ってゲームをプレイすること。すべてはめちゃくちゃに楽しい。
私はソフビも好きだし、昔の人が土偶とかを一生懸命作ってた意味も分かる気がする。楽しいのだ。
D&Dで使えるミニチュアも買ったし、塗装も少しやったりしている。やっぱり楽しい。
紙コマをつくる
さて、先日仲間内で集まった時にD&Dを体験してもらおうと思い、小一時間のセッションでDMをやった。そのとき、ミニチュアを用意しようと思ったのだが、運悪く調達が間に合わなかった。
何もないのもさびしいかと思い、紙で簡易コマを作った。すると、これがなかなかにかわいい。
この辺りは好みの分かれる部分だろうが、自分で描いた適当な絵のチープさが、程よく想像力も妨げず、良いのではないかと思っている。このあたりはファミコン、スーファミのキャラグラフィックに親しんできた年代の感覚の可能性もあるが。
というわけでこれが楽しくなってしまい、せっせと紙コマを作っている近頃なのであった。
同人誌の表紙くらいの厚さの紙に、ボールペンと油性ペンで手書きしている。
![](https://assets.st-note.com/img/1691486495744-PivNtye1HX.jpg?width=1200)
いろいろと思ったことを書いてみたが、どのようなスタイルにしろ楽しいセッションは楽しいし、初心者ゆえいろいろ体験してみたい部分もあるので、プレイの機会をつかんでいきたいところ。
おわり
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