杉戸宿キーワード事典
五街道
家康が整備し、二代目の秀忠が定めた政治的、軍事的に重要な道である。江戸を中心とした全国規模の交通ネットワークの要になるのが江戸と大きな町を結ぶ五街道である。政治、軍事の要が、流通、そして文化の要となっていった。
五つの街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道である。奥州街道以外は、日本橋を起点としているが、奥州街道は、日光街道の途中、宇都宮から分かれて白河に至る。「奥州街道27次」というときは、日本橋の次の最初の宿である千住から数えて27の宿場があるという形になる。
五街道からさらに地方に延びる街道を「脇街道」といい、これらが整備されることにより人や物資や情報を江戸に集められるようになり、幕府の支配体制を安定させた。これら陸路と別に、海の街道も整備され、主な航路として酒田から江戸に至る東廻り航路、酒田から能登半島を経て下関を通過し瀬戸内海経由で大阪に至る西廻り航路、そして大阪から江戸への航路を南海路と呼ぶ。
日光街道は、家康をまつる東照宮に行くための道で全長140キロメートル、21の宿場がある。杉戸は5番目の宿場である。
日光
何とも有難い感じのする地名であるが、もとは奈良時代の僧、勝道上人が男体山を開き、霊場としたのをはじまりとする。
この男体山は、もと「二荒山」であり、「ふたら」を「ニコウ」と読んだことから、「日光」が当てられたか。そもそも「ふたら」は、観音菩薩が住む地として「補陀落」といい、(サンスクリット語でポータカラ)、それが「ふたら」になったとか。
当て字といえば、日光街道の4番目の宿場である春日部はそもそも「粕壁」であった。春日部市のホームページを見ると、鎌倉時代までこの地を治めていたのが春日部氏だったのだが、どこかの時点で酒屋が栄えたこの地を「粕壁」「糟壁」と書くようになった、それが「春日部」に戻ったというように書いてある。
「春日」(かすが)」という地名は多い。なぜ「春日」が「かすが」と読むかについては、春の日は薄くてかすかだから、と思っていたがどうもそういうことでもなく枕詞に由来するものらしい。脱線し続けてしまうのでこの辺でやめておく。
宿駅伝馬制
東海道五十三次、日光街道二十一次、というときの「次」とは、宿場のあるところをさしている。次の宿場で人や荷物を送りつぎ、新しい馬につみかえていくというシステムがあったのである。これを宿駅伝馬制という。
この制度を作ったのは徳川家康である(1601年)。各宿に人と馬を用意しておく。公用の文書や荷物は、宿ごとに人と馬をかえながら、運ぶ制度である。
つまり宿場には、旅人が泊まったり休憩したりする場所を提供するほかに、人馬継立、という役割があったのである。これを行うのを問屋場(といやば)という。
杉戸宿の位置
日本橋から、各宿への距離は以下の通りである。
千住 8.7キロ
草加 17.5キロ
越谷 24.4キロ
粕壁 35.6キロ
杉戸 41.8キロ
幸手 48.4キロ
栗橋 56.6キロ
中田 56.8キロ
古河 62.7キロ
どうやら、旅人は一日8里から10里を歩いたという。これは31キロから39キロという距離になる。
越谷から粕壁まで11キロあるということもあり、最初の宿泊が粕壁になった、という話はうなづける。
逆に言うと、杉戸は粕壁のすぐ次なので杉戸で泊まるということが相対的に少なくなりそうだ、ということは推測できる。とはいえ、東海道中膝栗毛では、弥次郎兵衛と喜多八は杉戸宿の旅籠「釘屋嘉右衛門」宅に泊っている。
粕壁は旧江戸川の、杉戸は古利根川の水運によってにぎわった。ここでとれたコメや農作物が舟で江戸に運ばれたのである。
杉戸宿は、宿駅伝馬制により、1616年に定められ、下町・中町・上町の3つの町から構成された。経済が発達して市場が生まれると、月に6回、六斎市という市が立つようになったが、杉戸では5と10のつく日に市が立ち、農作物などが売買され五十(ごとう)の市と呼ばれていた。
ちなみに、栗橋ー中田間が0.2キロしかないのは、ここに川があり、日光街道唯一の関所があるからである。小さな川には、すべて橋がかかっているが、ここだけ利根川を船で越えなければならない。江戸から逃げないように、地方から変なのが江戸に入らないように、監視されていた場所でもあるようである。
古利根川
徳川家康は、1594年から利根川を東側に移す大工事を行った。それまで利根川の本流は、いまの古利根川である。
この工事で、農業用に作られた葛西用水が古利根川に流れ込むようになり、大落古利根川と呼ばれる。大落とは、農業排水を落とす大元の排水路という意味である。
宿場の施設
本陣・・・天皇の使い、公家、大名、幕府の役人などが泊まった宿舎。
脇本陣・・・本陣では泊まり切れない場合、予備として利用された宿舎。一般の旅行者も利用可能
旅籠・・・庶民、公用の旅ではない武士が利用した宿泊施設
見付・・・見張り番のいる宿場の入り口
問屋場・・・宿駅伝馬制の人と馬を用意したり、引き継ぐための手続きをしたりする場所
高札場・・・幕府からの知らせを伝える掲示板のあった場所
天保14年調査の「宿村大概帳」という史料によると、当時の杉戸宿の規模は、本陣1軒、脇本陣2軒、家数365軒で、男789・女874人の人口。
問屋場(といやば)
幕府の公用旅行者や参勤交代の大名などの荷物は、宿場から宿場へ、人や馬を使ってリレーのように運んでいく。人馬継立の機能が重要な理由である。
公用旅行者、大名は、江戸を出発するときにあらかじめ日程や移動に必要な馬、人足の数を届け出る。この情報がすぐに各宿場に伝えられ、いつ、馬が何頭、人足が何人必要がわかっている仕組み。
ちなみに、杉戸宿では、一日につき25人の人足と25頭の馬を出すことが定められていた。杉戸音頭(古い方)の一番の歌詞には、明治天皇が東北に向かう途中で休憩した、ということが出てくるが、杉戸宿の問屋場は現在の三井住友信託銀行がある場所である。
一般に、問屋場には飛脚の仕事もあり、江戸から京都まで普通の人は2週間かかるところ、飛脚は3~4日で届けたという。二人一組で次の宿場まで走り、体力のある人が問屋場にスタンバイしているなど。
問屋場の役職
問屋・・・最高責任者
年寄・・・補佐役
帳付・・・事務担当
人足指・・・わりふり担当
馬指・・・わりふり担当
公用旅行者は全員武士なので、いばる人も多く、神経を使って朝から晩まで大変な仕事だった。
運搬料金は、荷物の重量によって変わるので、問屋場には「貫目改所(かんめあらためしょ)」があった。
公用の武士は、「御定賃銭」=安い料金でOK
商人などの荷物は人足との個別交渉「相対賃銭」=だいたい御定の二倍。
今でも似たような話、ありますね。
助郷(すけごう)
もし、人足や馬が宿場のなかだけでは足りない、ということになったら、近所の村々に知らせて人や馬を集めた。村の農民は、協力しなければならず、これはかなり重労働だった。交通量は徐々に増えたので、農民の負担は大きくなっていった。
旅籠
杉戸宿には、46軒の旅籠があったとされている。
食事つき旅館のこと。一泊二食つき。
旅籠の家族は、台所でお客さんに出す食事を作っていた。特別豪華ということはなくて、ごはん、みそしる、魚、煮物、、、といったもの。
お風呂やトイレは共同。
泊まる部屋は畳敷きで、ふとんでゆっくり寝れる。
一方、節約するなら「木賃宿」というのもあった。
自分で持ち込んだ食糧で自炊。旅籠の1/10の料金で泊まれた。
木賃というくらいだから、つまり食事を調理するときの薪代だけは払いなさいということ。こちらは、板張りの大部屋で雑魚寝。ふとんではなく、筵をかぶって寝ます。
護摩の灰
旅人のふりをした泥棒のこと。