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洵と姑息

※かなり勢いに任せて書いたため 意訳や解説が不十分なままになっている。直すかもしれないし直さないかもしれない。

妹の本当の願いは何だったのだろうか、気付くことができぬままに鬼を斬る。そのいかにも人間らしい、姑息で醜く歪んだ心で。

ヴァルキリープロファイル ワールドガイダンス

洵がボロクソ言われてるのが好きなので ワールドガイダンスのテキストが好き。

ところで 語句の意味の取り違えに敏感な人間であるため、どうしても【姑息】という表現が気になる。
満足を求めて【姑息】について調べた結果、「意図的にこの表現を使っているのかもしれない…」と思い至ったので、(もう洵について書きたくないと思っていたが)突発的に記事を仕上げた。

現代日本の「姑息」

姑息(コ-ソク)
(正) 一時しのぎ・その場だけの間に合わせ
(誤) 卑怯であるさま

特に引用してない

姑から【しばらく・かりそめ】、息から【休む】の意味を取り成形した熟語に【一時しのぎ】の意味を与えている。
【姑息】は意味の取り違えが多い クイズ知識として有名な単語でもある。
「姑息な手段を選ぶ男」という文を見た時に、大体の受け手は「卑怯な人物なのだな」と感じるらしい。(7割の人間が意味を誤認している)

原因はおそらく「姑」にある。調べてみて「しばらく」という意味を内包する事を知ったが、これも当て字からくる意味らしく、姑息以外にその意図で用いられている例が出てこないない。「しゅうとめ」のイメージがあまりに強すぎる。

そんなマイナー漢字を用いた姑息とは何なのか、その語源は紀元前の中国に遡る。

語源で見る「姑息」

三省堂のいい辞典

姑息の出典は古代中国の書物、礼記の一節による。礼記とは儒教の有名な経典のひとつで、周から漢の時代にかけて儒学者がまとめた「礼」に関する記述を編纂した、雑然とした記載の詰め合わせだ。
「姑息」はその中で曽子(孔子門下の人物)の言葉として登場する。

君子之愛人也以徳
細人之愛人也以姑息

礼記より

書き下すと「君子の人を愛するや徳を以ってし、細人の人を愛するや姑息を以ってす」となる。シチュエーションとしては

① 病床の曽子が、君主から賜ったすのこの上に寝台を置いていることを指摘され 息子に取り換えるように頼む
② 息子は危篤の父を思い「今取り換える必要はない」と否定する
③ 曽子は上記の言葉を言い、すのこを取り替えさせ、死ぬ

という流れ。

君子の愛には徳があり、大局を見据えた正しい思想に基づく。一方細人※の愛は、視野が狭く その場限りでは相手を思いやった正しい判断に見えても、大局的に見るとそうではない。…そんな感じの話。
※ 細人……君子の対義語、つまらぬ人物

「父が病身なので寝台を動かして負担を与えたくない」と思う息子の愛情を「姑息」と捉え、それよりも父を思うならば「正しい判断(ここでは君主への忠義を貫くこと)により死ぬのであればそれが大義」であると考えるのが「徳」であるらしい。
儒教の影響が薄ければ「正しさ」のありようも違う現代人から見ると 解釈の難しい逸話である。

ここで重要なのが、「姑息」とは人の愛し方の話であること。また、この語源エピソード自体が、洵の小話と軸を共有していること。

礼記になぞらえると 病身の妹に対して「妹の願いを理解し側にいてやること」が君子の徳による愛で、「自分の命を賭けて妹の病気を治すこと」が細人の姑息な愛という構成になっている。そうしてみるとガイダンスで「姑息」という表現を用いたのは 意図的にも思える。

※このエピソードになぞらえると「徳」と「姑息」の愛し方、逆じゃないか?(洵の愛は君子の愛じゃないか?)と感じるが、製作者の定めた正しさが絶対なので洵の判断が姑息なんだろう。

※「曽子は、一時しのぎの配慮に従って生き長らえるよりは、正しいことをして死ぬ方がよいと考えた」がめちゃくちゃ見たことある論法だった。鬼の問いじゃん。

文化庁月報より引用

※ワールドガイダンスの記述、ボロクソ言われている一方で「いかにも人間らしい」と表現されており、大抵の人間は君子にはなれないから 姑息な手段しか取れなくとも仕方がないよなと思う。
→ここの正しさの話は(製作者の中で答えが出てたとしても受け手としては)本当に難しいと思う。「俺の判断は間違っていたのか」と苦しみ続ける洵は いかにも「細人」で愛おしい。

もう少し最近の「姑息」

「細人之愛人也以姑息」という句をとても気に入ったので、この句について調べていたところ、2021年3月発表(!)の論文がヒットした。
かの西郷隆盛が、自己研鑽のためフランスに渡った弟を思って詠った漢詩【憶弟信吾在仏国】の中の【欲離姑息却姑息】という七言絶句の転句に位置する句をどう解釈するか?という内容である。

CiNiiへのリンク
PDFへのリンク

(かいつまむと)礼記における「姑息」を踏まえた上で、「フランスに行った弟を正しく想うのであれば「苦難を受けて成長して欲しい」と願うべきだが、それを分かっていても「なんの苦労もなく無事に帰ってきてほしい」と願ってしまう」という解釈を試みている。
(私の要約はかなりおかしいのでぜひ原文を読んでください)

そう考えてしまうこと、その想いを詩にしてしまうこと、どちらも共感できるし、いい詩だと感じた。兄弟に対する思いやりの感情ということで、洵を考える上での副読本として紹介しておきたかった。

※これが天の川に願うシチュエーションだったため今日(2022/7/7)無理矢理書き上げた。VPのソシャゲで七夕限定の洵が持ってる短冊 絶対それだし…

「妹の病気は重病なのでは?」と「洵は妹の願いを知った上で自分の願いを優先させたのでは?」については過去に書いているのでご参考ください。

オマケの「姑息」

【姑息=一時しのぎ】の意味合いとして正しく用いられている単語として【姑息的治療】というものがある。
病状の根源を治療する目的の治療以外の全ての治療を指す単語で、重病者の介護経験がある人はその思想を理解しやすいかもしれない。
(重症状患者の緩和ケアなどが分かりやすい例で、病気と人との関わり合いとは単純な話ではなく、そこにまつわる思想もいろいろあるのでここの話はけっこう面白い)

この姑息になぞらえると妹が求めているのは緩和ケアだし、洵が求めているのは原因療法なので、洵の思想は姑息とは真逆なのが面白い。

おわり

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