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父親は「社会」を示す――学歴至上主義かつ「I am not OK.」な父親たちが作り上げた「競争社会」の構造

2023年を迎えて、もう2月に突入しました。社会を見渡すと、「膿だし」のようなことが起きているように思います。暗いこと・困難・混乱があるかもしれませんが、これらを乗り越えた先には、理想的な社会が待っていることは間違いないでしょう。

今、社会が大きく変革しようとしています。この日本においては、30代~40代――つまり日本が「(平成の)失われた30年」に入ってから社会に出た世代――を中心に、既存のお金・地位・「持ちうるもの」「他者との比較」などとは異なる新しい価値観に基づいて社会を再構築しようという動きが生まれています。

私はこうした社会の動きを、歓迎の気持ちをもって受けとめています。私自身、失われた30年のはじめのほうに学校を卒業して、社会に出た人間だからです。社会構造的に「上」の人たちの、不思議なほどのカネと地位と比較・勝敗に凝り固まった価値観に、疑問と怒りを提示しつつ仕事をしてきた一人です。

この令和の時代において、新しい社会に向けてビジョナリーやエバンジェリスト的な活動をしている人々が、様々なメッセージを提示しています。それらを聞くにつけ、「まさに我が意を得たり」という気持ちが強まっています。

そんな中、最近私が瞑想をしながら自分の意識に注意を向けたところ、ふっと深く気がついたことがありました。それは、父親と自分との関係性です。

■「低次の自慢」な父親の語り口に、違和感を得ていた幼少期

私の父親は、第二次世界大戦が始まったころに生まれた人間です。彼はまだ受験産業が発達する前の時代に、いわゆる良い大学を出た人物でした。受験テクニックがない時代にトップクラスの成績を上げてきた人物なので、客観的に言っても非常に地頭がよいと言っていいのでしょう。

ですが私はそんな父親に対して、小さい頃から長く長く疑問に思ってきたことがありました。その1つが、彼が自分の学歴を語るときに醸し出す、不思議なほどに嫌な雰囲気のことです。

自慢話は、誰もが嫌がる事項です。ただ、父親に対して子ども時代の私が感じていた「嫌な雰囲気」は、一般的な自慢話とも異なる、変な感じだったのです。おそらく、その「変な感じ」は、父親の自慢話に何かが欠けていたからかもしれません。

私の経験上、帝大系や軍学校などを出て活躍してきた年配の人々にはしばしば、「ノブレス・オブリージュ」的な誇りが伺えました。そうしたノブレス・オブリージュを持っている人々には(口にするのが自分の自慢話であっても)、社会に対する責任感、そして責任を負うことに対する緊張感と誇りが感じられました。つまり、責任感と誇りの高さによって、自慢話の嫌な感じが相殺されるところがあったのです。

一方、私の父親による自慢話は、それらとはまったく縁遠い感覚だったように思います。私は子どもの頃から、そんな父親が持つ雰囲気に、言葉にしにくい違和感を得ていました。

そもそも、私がティーンエイジャーだった1980年代後半くらいからは受験産業が発達し、「カネを投資できる家庭が受験システムで優位に立つ」傾向が強まってきました。本来の「個々人の得意/不得意分野を知る」「その上で自分の行き先を定めていく」といった意義が薄れつつあり、21世紀に突入した今はもう言うまでもないことでしょう。マイケル・サンデル教授が言う「格差の助長システム」という論には膝を打つしかありません:過去のnote記事もご覧ください

話を戻しますと、父親の自慢話にはさらに「おまけ」がついていました。自慢話と併せて、「ぼく(筆者のこと)がやりたいこと」を無自覚のうちに批判していたこともあったのです。ただ当時は気が付きませんでした。私が大人になって、しかもかなり年を重ねてからの近年になってようやく気が付いたことでした――あの嫌な感覚は、おれのことを批判していたのか、と。

父親は大学の工学系の出身なのですが、「理系が上・文系は下」という考え方極めて強い人間でした。子どもである私はコンピュータはとても好きだったのですが、どちらかと言えば社会・芸術などの「文系テーマ」に関心を寄せることが多く、そうした私の素直な興味の発露に対して、彼はしばしば文系学問を下にみる発言をしていました。

大人になった今の私から言わせれば、子どもの私が自然に持つ「素直な【好き】」を、近しい権威者から頭ごなしに否定された格好です。当時子どもであった私にとっては、かなり残念というか、傷ついた気持ちがありました。

私がここ15~16年ほど、家族心理学などを勉強した結果判明したことですが、こうした発言の様式は、「存在不安を抱えた親が、子どもに自己否定感を植え付けるための“格好の手口”」なのだそうです。後にも触れますが、存在不安とは自分自身のありのままの姿を受容し、OKを出すことができないという、不安定な心理状態のことを指します。

このようにして子どもに自己否定感を植え付けると、子どもは決して親に刃向かわず、かつコントロールしやすい人物になります。弱い存在をコントロール下に置こうとするのは、存在不安を抱えた親に見られる典型的な行動パターンです。

その後、高校に進学した私は、最終的には大学で理系の道を選択しました。しかし心の中に、この「父親による嫌な批判の感覚」が長い間、身体感覚として残っていました。正直、50歳の声も聞こえるようになってきた大人になった今でも、自分の中に嫌な身体感覚が存在するのを自覚するときがあります。

■父親が繰り出す嫌味・批判は「父親自身の存在不安」が原因だった

そして私はつい最近、自分自身が50歳代に入る目前にして、父親に対して抱き続けてきた「不思議な違和感」の正体が判明したのです。

大きく次の3点が、その要約です。

1つ目は、【私の父親は、学歴をはじめとした資本主義・競争社会における価値のモノサシに基づく優位性によって、他者よりも『上』、つまり優位に立とうとする人物だった】ということ。

2つ目のポイントは、【そうした父親の優位に立とうとする心理の裏にはあるのは、学歴などのモノサシによってしか自分の価値を担保できないほどの、強烈な『存在不安』だった】ということです。

存在不安とは先にも少し触れましたが、ありのままの自分に対する確固たる自信がない心理状態を指します。存在不安の状態は、簡易な英語で表現すれば「I am not OK.(私はそのままでいてはいけない、駄目な存在だ)」となります。

逆に、存在不安が少ない健全な心理状態の人は、それと自覚していなかったとしても、「私は私のままで価値ある存在だ(I am OK.)」という感覚で生きています。

そもそも、何か社会的な地位がなかろうと、価値ある何かを成し遂げていなくても、幸せに、そしてただただ「存在していてOK」なのが、個たる生命が保持されている人間の自然な姿です。「DNAアクティベーション」「アデプトプログラム」から始まる神秘学・形而上学を勉強すると、こうした「健全な人間は何を当たり前として人生を生きているのか」という話題を学びます。

我々は全員「この世界にあなたは存在していていい」と“大いなる存在”に認められているから、この世界にいるのです。

話を少し戻しますと、「I am OK.」の感覚は、健全に生きるために大切な感覚だとされています。そして子どもがこの感覚を養うのに重要な存在は、家族心理学の分野では両親だと言われています。

翻って、「私の父親にはそういったI am OK.の感覚が、どうやら非常に少なそうだ」ということ――おそらく真実でしょう――について、私は50年近くも生きてきて、ようやく気が付いたのです。

こうした存在不安の高さ――I am not OK.は、いわゆるハラッサー(他者にハラスメントを振るう人物)に共通する特徴と言われています。

ハラッサーたちは、自分を尊厳ある個人として扱えないがゆえに、周囲の人(特に自分が権力を発揮しうる弱い立場の相手)をとことん利用して、「自分が相手よりも上であること」を確認しようとします。こうした人物に目を付けられて利用される間柄になってしまうと、ハラスメントを受けた側は、魂が破壊されたようなボロボロの生活になってしまいます。

最後の3つ目のポイントが、まさにそれです。私が気が付いたことは以下のようになります。

【父親にはこのような強烈な存在不安があるがゆえに、父親はたとえ実の子どもであろうと、自分に存在不安を感じさせる人物に対しては、根拠のある・なしにかかわらず、脅し・嫌味・批判などを浴びせて、徹底的に自分よりも『下』になるように押さえ込む(=ハラスメントを振るう)】

ハラッサーは、恐ろしいことですが、相手が実の子どもだろうと、あるいは結婚しているパートナーだろうと、このようなハラスメントを無意識のうちに実行します。これは私の推測ですが、ハラッサーは何らかの心理的問題から、情動に基づく一種の「脳の反応」としてハラスメントを実施してしまうのではないでしょうか。なお、行き過ぎたハラスメントは、時に「家庭内虐待」や「家庭内殺人」の事案として報道されています。

これは私の経験上確かに言えることですが、そうしたネガティブな行動を防止するために、瞑想をはじめとした様々な霊的修行法や「DNAアクティベーション」などのヒーリング、そして「アデプトプログラム」などが提供するイニシエーション(=これは「その道に入る、入門する」の意味で、伝統的な儀式に基づき光の保護下に入ります)が存在しています。

話を戻しますと、私という子どもは、どうやら存在不安にまみれた父親にとっては、格好のハラスメントの対象だったようなのです。

「なぜ父親は、ぼくにあのような嫌味を言うのか?」
「なぜぼくにあのような、追い込むような非難の仕方をするのか?」
「なぜあのように不思議な脅し方をするのか?」――。

思い返せば、長年、疑問でありつつも心の奥底に押し込んでいた、少年時代からのこれらの疑問が、私の中には残っていました。最近、それらの疑問に対する疑問への答えが見えてきたのと同時に、「父親とは一体どういう人物だったのか?」という疑問への解像度が、急速に高まってきたのです。

さらに加えて、ふっと腑に落ちてきた事項があります。それは、「存在不安の塊」であった父親の「影」が、過去の私の人生では、学校や職場といった「社会」における「目上の男性」として表現されていた、ということです。

言い換えると、私のことを悩ませてきた、ハラスメントな先生、ハラスメントな先輩、ハラスメントな上司は、ぜんぶ「父親のコピー」だったのです。

不思議なことに、これら目上のハラッサー男性たちは、私にとって「まるで同じ雰囲気」を持っているのが特徴でした。目上の男性たちはおしなべて私よりも優位に立てる尺度――何かの達成能力、成績や実績、あるいは大学のブランドなどを使って高圧的な態度を提示し、非常にいやな感じで私の劣等感を煽る発言を投げかけていました。

さらに不思議なことに、彼らによる私の劣等感の煽り方は、非常に特徴的であり、また共通の雰囲気がありました。

その1つは、まるで私の心の中を超能力で見通しているかのように、非常に嫌な“痛点”を、巧みに突くような煽り方をしていたこと。そして、もう1つは――これが特に大きなポイントですが――、なぜか、それぞれのハラスメント男性は、私の人生において時代も所属組織も登場シーンもがまったく異なる別人だったとしても、その煽り方がまったく同じであった、ということです。まるで、事前に意図的に設計された映画脚本さながらに同じだったのです。

その理由は、後に家族心理学を知ることで判明しました。内容としては、かなりシンプルです。彼らハラッサー男性という存在たちは、「私が幼少期に父親から受けたハラスメントによる、私の心の傷の反映」だったためです。

人の潜在意識の構造を勉強していくと、こうした特徴的な人間関係に共通性が見られる理由が見えてきます。

■私以外にも多くいるであろう「親からのハラスメントの被害者」たる、「かつての子どもたち」

繰り返しになりますが、子どもが成長して社会に出て、社会的な関係性(仕事やコミュニティなど)で出会う人々、特に「目上の男性」は多くの場合、「父親のコピー」です。

私は、「DNAアクティベーション」「アデプトプログラム」に始まる神秘学・形而上学の学びを、10年以上にわたり続けてきました。面白いことに、こうした学びを続けつつ自分をヒーリングしていくと、むやみやたらに嫌な感覚を呼び起こす出来事が減ります。人生の快適性が高まって、クリエイティブなことに自分の力を割くことができるようになり、人生を生きるのが楽になります。

その一方、たまに「自分の人生を駆動させている大課題に取り組むべき」とばかりに、深い気づきを喚起する出来事が発生します。それが近年の私においては、父親との関係性でした。

そうして50代も目前にした今になってようやく、過去私が出会ってきた男性たちによるハラスメント経験との接点が見えてきたのです。

皆さんにとって、父親とは、どのような存在でしょうか?

私にとっては、小さい頃から「縁遠い存在」だったのですが、その理由もここ数年でようやく分かりました。母親があまりにも精神的に不安定な人物だったため、父親はどうしようもなくなり「家庭から逃げていた」と打ち明けてきたのです。

並行して私は近年、幼少期の私は母親から性的ハラスメントを受けていたことが判明しました。先の「家庭から逃げていた」は、そのことを家族に問いただしたところ、父親の口から飛び出てきた発言です。母親のハラスメントについてはこちらのnote記事をご覧ください。【母親に「ペット」と呼ばれ続けた人生は、どうなるか?

以下にまとめますと、

【家庭にまったくと言って良いほど関与せず、学歴至上主義、かつ、それと裏腹に、強い存在不安――I am not OK.――を潜在意識下に抱えている父親】
【精神的に錯乱し、パートナーであるはずの夫の助けがないまま、やり場のないネガティブエネルギーを子どもにぶつけまくる母親】

――これが幼少期の私を育てた両親の、隠すところのない実態だったのです。

もしかしたら、戦後の高度経済成長期においては、このような家庭を顧みず仕事にまい進する父親、孤独な母親、ハラスメントを受け続ける子ども――かつての私のような子どもです――という構図は、私の家庭以外にも、たくさん見られたのかもしれません。

これは大人になってから気が付いたことなのですが、私は長くずっと、「父親や母親を尊敬する気持ちや、感謝の気持ちがどうして持てない自分」が疑問でした。周囲の仲間は親に感謝の気持ちを伝えるためのプレゼントなどを用意したりしますが、私はどうしてもそういう気持ちがわかない。「自分が何かおかしいのではないか」と真剣に考えたことがありました。

50歳近くになってみて、ようやく分かったのです。「私は、父親と母親の存在不安を埋めるための道具として利用されており、幼少期の私はそれを心の憶測で分かっていたのだろう」ということです。

■過去をひもとく危険性と、逆にそこからこそ得られる効用は?

翻って私は、「自分が人生のこの瞬間を幸せに生きる」ためには、「過去の自分に何があったのかをひもとく」ことが、とても重要なアクションだと確信しています。

カウンセリングやコーチングにもいろいろな考え方があります。例えば脳機能科学者である苫米地英人博士とルー・タイス氏によるコーチングでは、「あくまでも人は『望む目標を達成し生き生きと生きる』未来を創造することが目的。そうであれば、過去のトラウマを刺激しやすいアプローチは避けるべき」としています(筆者による両氏らの書籍調べ)。

私も苫米地博士らの意見には、基本的には賛成する立場です。ただ、それでも私自身の経験を踏まえて言いますと、「過去の心の傷があまりにも深くて影響度が大きい場合は、そうは言っても傷の構造をしっかり読み解いて、心理的な縛りを解放することが重要」と考えます。

過去の傷の構造を読み解き向き合う際に、私にはヒーリングや瞑想が大きな助けになりました。また、「DNAアクティベーション」「アデプトプログラム」に始まる神秘学・形而上学的な知識、またそれらとは別に家族心理学やカウンセリング、また苫米地博士らによるコーチングの理論も、自分と親の関係性をひもとくうえで、強力なガイダンスになりました。

翻って言えば、「自分自身を生きる」ために、利用できるツールは何でも、利用するべきでしょう。

■理想社会は、個人の心から生まれる「We are all OK.」から生まれる

先ほどから繰り返し、子どもが社会に出てから会う「社会的関係性における他者」は父親のコピーだ、と述べています。

そこから延長して考えますと、いま私たちが目にしている資本主義・競争主義的社会は、戦後の高度経済成長期を作り上げた「父親たちの姿」そのものでしょう。

この社会形態は一定の成果を挙げ、また一定の役割を担ってきたと思います。ただ、もはやこのシステムは疲弊しきっており、これからの理想的な社会を迎えるにあたって捨て去るべきものが多々あります。

過去の競争社会において、置き去りになってきたのは生命を育む母親たちであり、またさらにその先で犠牲になってきたのは、未来を担う子どもたちでした。

人を幸せにしない「I am not OK.」な構造を捨て去り、「We are all OK.」な社会にしていくためにも、まずは現代を生きる一人ひとりが、「I am not OK.」な自分を見つめ、癒やし、手放すことが大切ではないでしょうか。

そうすると、少しずつ、自分の心の中に「I am OK.」が育ち始めます。これは、私が近年経験してきた、偽りのない真実です。

■「創造主の片鱗」を自分の内と外で掴めるかどうかがカギ

I am OK.の先にはいつか、「自分の内側に創造主と言えるようなものがあり、また自分の外側にも創造主と言えるようなものがある」ことが見えてくると思います。

その片鱗だけでも掴めると、心の持ちようがまったく変わってきます。日常でいろいろと嫌なこと・大変なことが起きたとしても、「不動の軸」とでも言うべき何かが自分の内側に存在していることが体感でわかってきます。このため、自分の意識が「不思議にも落ち着いた状態」に戻りやすくなるのです。

逆に言えば、何を持ちようが、何を達成しようが、何ができるようになろうが、こうした「創造主の片鱗」を掴めないと、人は結局、何一つ満足しないまま……というのが、人間の悲しい真実なのかもしれません。

さらに言えば、我々を創造したであろう「グレート・サムシング」が、人間に対して、日常生活でとらわれがちな持っている・持っていない、達成した・達成していない、できる・できないといった表面上の物事を超えて、自分の内と外に偏在している「創造主の片鱗」に気付かせるために、いろいろな仕掛けを用意しているとも、考えられそうです。

私もまだまだ、「創造主の片鱗」を、ようやく、そして少しだけ、掴んだばかりです。もしかしたら、「創造主の片鱗」を集めていく旅は永遠に続くのかもしれませんが、掴んだ前と後とでは、まるで見えている景色が違うということだけは、ここで申し上げておきたい真実です。

私の歩みが、より多くの方々の参考になりましたら幸いです。

■「真実の剣」note記事をご覧いただきました方へ

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