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「見栄」と「正しさ」の狭間で、過去を肯定して生きていく。

明日27歳の誕生日を迎える。これまで誕生日の当日にnoteを書くことが多かった。今年は前日に書いている。明日が平日なので執筆の時間が取れないことが予想されるからだ。私が一介の労働者であることから導出される必然的帰結である。

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noteで自分が誕生日を迎えることをわざわざ喧伝しているのは、読者から「おめでとう」をカツアゲするためだ。これは私に限った話ではない。最近では誕生日当日が終わりそうなタイミングで「たくさんのおめでとうの言葉ありがとうございました!」とSNSに投稿し、二段階システムで「おめでとう」を要求する人もいる。でも別に私はそのような振る舞いが微笑ましく許されるのが誕生日という日だと思う。

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27歳になる。「まだ27」と「もう27」どっちかよくわからない。でも年齢が若いと見做されるのか老いていると見做されるのかはその人が属する環境に依存する。私が平日にどっぷり浸かっている永田町という世界は27歳など若輩中の若輩であり、40代まで「若手」である。しかしプロスポーツの世界であれば40代は「大ベテラン」である。畢竟、年齢とは相対的なものである。

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誕生日の前日はどこか不思議な気分になる。「明日どれだけの友人が祝ってくれるだろうか」と少しソワソワする。それはこの一年間の人間関係の「答え合わせ」のようなものだと思っているからなのだろう。浅ましいとは思う。それでも明日から始まる新しい年齢での一年間には何かさわやかな希望を感じざるを得ない。「節目」には人生が進んでいると思わせる力があるものだ。その一方で去り行く26歳の一年間を一丁前に振り返って、永遠の若さなどないことも知る。あと一時間後、希望と焦燥感の中で震えながら眠ることになる。

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この一年間は自分でも意外なほど多くの人と接する機会があった。私は自分のことを家の中でじっとしていたいタイプと思っていたので、不思議な状況だと思う。今の仕事は人とコミュニケーションを取ること自体が最重要の任務だから、自分が思っていた自分とはかけ離れた仕事をしているなと思う。しかも休日にすら友人とディスカッションや20-30人規模のパーティを主催したりすることもある。不思議な世界線である。

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これまでは「孤独の自分」(これには積極的な意味も消極的な意味も含まれている)と「孤独ではないみんな」がこの世界の中で相対しているのだと思っていた。それでもそれなりに経験を積んできた結果、「孤独の自分」と「それぞれの孤独を抱えた一人一人の人間」がいるのだ、ということに気がついてきた。だから自分が「孤独であること」を引き受けることは、そのまま他者に関わろうとすることなのだ、と理解している。自分が孤独であることを通じて自分であることは、そのまま他者と関わることに通じているのだ。このことからわかるのは、結局「本来の自分」なんてものはとてもあやふやで、投げ込まれた環境の中から「自分らしい暫定的な考察」を導出しようする生き物だ、ということである。

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さすがにこの歳になっても「自分が本当にやりたいことはあるのか」という命題にとらわれてはいけないと思う。なぜかって自分が「やりたいこと」と思っていたものに到達した時、「やりたいこと」の中には「やりたくない類の作業」がふんだんに含まれていることに気づくからだ。ともかく「やってみたいこと」をたくさん抱えながら、「今やっていること」の中から「楽しいこと」を取り出す作業を細々と続けるようにしよう。

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ただそれでも「やりたいこと」はできるだけやったほうがいいと思う。そうでないと、自分がしていることが「社会の中で正しいのか」に気を取られてしまうからだ。自分を「正しい」と思うことの魅力はハンパではなく、「正しさ」はいとも簡単に他者への断罪へのモチベーションに転化してしまう。ともかく徹底的に主観で「楽しいこと」にこだわるのが大切だと私は思うのだけれど、「結局楽しいことにこだわることができるのも生まれ持った性格に依存するのではないか」と言われれば、そんな気もして、決定論的な気もする。遺伝と平等は難しい問題だけど、勉強しなければならないと思う。

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これまで大きな自由を得て生きてきたと思う。本当にありがたいことだ。しかし自由には責任が伴う、ということを実感として引き受けなければならない。そんな規範が強まってくる年齢でもあるのだろう。その「責任」とどう付き合うのかはとても大きな問題だ。自分の目の前に現れるさまざまな種類の「結果」に対して、「どのくらい自分のせいにして、どれくらい社会のせいにするのか」という塩梅を自分なりにつけていく作業がますます求められると思う。

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「自己責任論」が批判されることもあれば、「他責思考」が批判されることもある。現時点で私は両者の関係性を考察することはできていないけれど、「自分の責任」として引き受けるためにも自分の過去を肯定しながら、心の平穏を保つためにほどほど社会のせいにしていくスタンスが無難なのではと、現時点では思っている。

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現状維持は後退の始まりだ、というけれど、自分が「現状維持されている」というのは正だろうか。「変わっていない」と思うことも「変わっている」と思うことも傲慢かもしれない。畢竟、「自己分析」とは、長い目で見たときに自分を構成する要素の何が変わって、何が変わっていないのかを確認する作業である。その前提に立ったとき、私たちは「成長の義務」の神話から解放されるかもしれない。

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自分がやっていることが社会の中で認められるのか。それに基づいて獲得できた報酬が他の人よりも大きなものなのか。自分が仲のよい人間が社会のステータスとしてどんな人間なのか。気にしないわけではない。むしろよく気にしているはずである。気にした自分を自分で確認して「うわぁ….」とよく思うのだが、もう自分(あるいは人間)はそういう生き物なのだと諦めている。不服かもしれないがそういう自分の「キモさ」をとりあえず受け入れないと、「キモい自分」を隠しながら生きることなので、どんどん「キモく」なって悲惨である。「キモい」という感覚は、過去を振り返れば必ず浮かんでくる感情だけれど、他の人はどうやってこの感覚を処理しているのだろうか。

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この世界が「孤独な自分」と「孤独ではない他者」との関わり合いだという「ナイーブ」な理解とは少し距離を取るときが来たのかもしれない。代わりに採用するあり方は、他者に関わり、他者が私と同じく持つであろう孤独を引き受ける、ということにベクトルを向けることだ。

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これまで私はどちらかというと安全地帯にいながら観念をこねくり回してきた。それは冷静に暮らしを大切にすることにつながっていた。それは悪ではなかった。だから、これから社会に責任を果たしていくなどとは自信を持って言えない。それでも自分が自分で身を置くと決めた環境の中では、孤独さへの想像力を持ちながら、地に足ついた毎日を過ごすことが大切なように思う。この一年間もどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m

完。

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