「選択肢がない」という幸せについて
ときおり「北朝鮮に暮らす人は幸せなんでしょうか」と聞かれる。とりあえず「幸せの感じ方は人それぞれですから」と答える。答えになっているのかいないのかよくわからない。
質問をくれた人は「それはそうですよね」と納得したようなしないような表情で去っていく。情報が統制された謎の国で暮らす人が何に喜び、何に悲しみ、何に希望を持って生きていくのか。私を含む多くの人が疑問に思い、興味を抱き、野次馬根性を持つ。
そこには自分たちよりも不幸な人を「発見」したいという極めて人間くさい態度があることを自覚している。世の中で「自分なりの幸せを見つける」ことが奨励されるのは、多くの人がそのことを実現できないからだ。それは多くのものを諦めることと表裏一体である。だから自分よりも不幸そうな人を見つけて安心しようとする。
しかし北朝鮮に友人もいなければ北朝鮮に暮らす人々と語り合った経験もほとんどない私のような人間が、彼らの幸・不幸を決めつけることは当然できない。
興味深いエピソードを紹介しよう。
ここには「選択肢がない」という幸せのあり方が示されている。かの国では個人の人生や願いは大きな国家の物語に絡め取られ制限される。このことが受け入れられているのは、自らの幸福を与え得るのは偉大な最高指導者だけであるという「当然の摂理」が(少なくとも建前上は)共有されているからだ。
そのような状況に接して私たちは「そんなことはフィクションだ」「そのような人生は不幸に違いない」と思い、彼らの言い分に真剣に耳を傾けることはなくなってしまう。
ただそんな私たちも大きなフィクションを共有している。私たちには無限の可能性がある。そう教えられてきた。自分自身の力で自分の人生にかかるあらゆることを自らの意思によって選択し、その結果の責任を負うことは当然だ。そのような虚構を(部分的にでも)共有している。選択肢があることこそが「個人の幸せ」に大きな影響を与えるものと信じているからだ。
このフィクションはもはや私たちの社会を維持することの当為になっている。だからこそ私たちは対極なロジックの国に暮らす人たちの「幸せ」に関心を抱くのかもしれない。彼らにはどのような選択肢があるのだろう。いやそもそも選択肢などないのかもしれない。究極的には選択肢の有無など個人の幸せにはまったく影響しないのかもしれない。そういった「異世界」としての生き方を北朝鮮に見る。
そうして私たちは選択肢のあることそれ自体の意味を疑うことになる。そうして結局私はどのような社会が個人の幸せにつながるのかわからなくなってしまった。ただなんでもそうだ。わからなくなってからがスタートだ。
完。
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