レンヌ公演が終わり、Saint-Maloへ。
レンヌからサンマロへの移動の車中にて
数年ぶりに長期滞在したレンヌ公演も終了。
感動や美意識を根底から覆すような人や物、そして風景に飢えていたのだと思う。
日本での忙しい創作環境や経営の中、インプットが枯渇してもアウトプットをし続けなければいけない環境に限界を感じている中で今回のツアーに出発できたのはいいタイミングだった。
そんな中、この時間を実りあるものにしたいという焦りから、どこにいても飢えた動物のように美しいものや感動を探しながら毎日を送ってきた。
しかし、ツアー中に集中するべきことはいい作品を上演することただひとつなので、バカンスに入るまでは、ただひたすら毎日のルーティンを誰にも邪魔されずにこなす事に集中していた。これは山海塾の長期のツアーの際もそうだったが、作品にエモーショナルな動きを多く必要としない場合はオーガニークでありながらも、オートマティックに自身を抑制し、作品を常にアベレージなクオリティーで演じ続ける責務がダンサーにはある。
しかし、偶然とは恐ろしいものであり、理性によって抑制しようとも偶然の出会いというものは突然訪れるものである。それらは理性の防波堤をいとも簡単に乗り越え、冷静を装う心が揺り動かすものだ。
そうした物や風景、人との出会いは恋と似た動揺そして、吐き気を感じるような損失感を運んでくる。そんな気持ちのまま、レンヌでの最終日迎え、今日からのバカンスをどこへ向かうか、チェックアウトしたホテルで考えていた。このバカンスの2週間、どこへ行くかは決めていない。予定にあった仕事やプロジェクトをキャンセルし、気の向くまま、飛行機と電車で旅をするつもりでいる。
ブルターニュ地方にいるということもあり、電車で1時間ほどのSaint-Maloに来た。一人で想いを馳せるにはこの街の建築の重厚さ、肌寒い気候、街を作る色彩など絶好の場所のようだ。街をあてもなく歩いていると、決して大きくもない大聖堂だが足を踏み入れた、そこは厳かでありながら、闇の奥に突如現れるバラ窓。全てが心の奥に重く迫り来る感動と孤独を運んでくれる。この視覚から入った感動が内側で自身の感情と結びつき、船酔いに似た感動を与えてくれる。
このSaint-Maloでは至る場所に感動の種が散りばめられており、大きな収穫があた。
2日目には、ゆっくりと部屋で仕事を片付けようと考えていたが、パリの友人から連絡があり、急遽予定を早めて帰ることにした。「会わなければ後悔する」という直感を信じて、電車に乗り込んだ。美しい出会い、そしてそれらによって生まれる美しいトキはお金や時間では得ることができない。自分にとっては最も美しさを感じるものとは「偶然性から生まれる時間や色彩、それによって運ばれる感情」なのかもしれない。こういった常にルーティーンのような規則性を持って生活している時に、翻弄され、流れに身をまかせることで予期しない感動や感情が何かと関係を持つことでプレゼントしてもらえる。
今回の旅では全てが思いつきのバックパックではあるが、無理に綺麗なものや美術館に行くのではなく、ただ自分の心に忠実に過ごしたい。そして計画とは感動と出会うためにある時には邪魔をするものなのかもしれない。感動との出会いは突然訪れ、偶然によって彩られる。だからこそ、感動との出会いが予感される際は迷わずに突き進まなければいけない。そこに人生を変えることがあるかもしれない。