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カメラの暴力について
レンズを人に向けるということはいつも一種の暴力性を持っている
私が撮影するという行動を始めたのは、高校卒業後に専門学校で映画制作を専攻したところから始まっている。今から20余年前のことになる。
スマホなんてものはまだ世には無く、メーカー各社がいわゆるガラケーのプロダクトデザインで競争をしていた時代だ。写メという言葉が誕生した直後くらいだろうか。巷の一般人が徐々にインスタントデジタル写真を撮り始めた頃と言ってもいいかもしれない。
昨今のスマートフォンがここまで普及した社会に生まれた後輩たちには想像出来ない世界かもしれない。今やこの社会は、スマホ、タブレット、ラップトップ、防犯カメラ、etc…生活の中にカメラとレンズが常にどこかにあり、私達を監視していることが当たり前な世界となってしまった。これがユビキタスというワードが指していた世界なのだろうか。
さて、そんな誰もがカメラを持ち歩くような時代から思い返して、当時あの専門学校に通って良かったなと感じる点が一つある。それは、入学して間もない座学授業で冒頭の概念を教えてもらったことだ。
このテーマを語る際には、ある程度の交通整理が必要で、その撮影するという行為が「芸術制作」なのか、「ジャーナリズム」なのか、「その他ビジネスコンテンツ」なのか、「趣味」なのか、これらのどの大義名分によって行われているのかポジション確認をしなければならない。そして他方、最も重要なのが、レンズが向いた先からの逆の視点だ。
被写体が人間だった場合。交通整理が極めてややこしくなる。何故なら、人間は感情で動いているからだ。感情は論理の信号など通用しない。とても難しい。自分に関心が向けられているという状況で、大義名分の印籠が一定の効果を生む場合もあれば、そんなのなんであろうと関係ないと拒絶反応が出る場合もある。
人間の脳においてレンズというのは、銃口や矛先と同じ認識をされていると言っても過言ではない。実際、撮影することをshootingと言うのだから、言い得て妙だ。「魂が抜かれる」なんて表現をする人の発想もここからきているのではないだろうか。「撃たれたはずなのに、身体に何も起きていないのはおかしい。ならば、魂が抜かれているのではないだろうか」なんていう飛んだ推察反応なのかもしれない。
撮り手側の「興味関心の現れ」であるカメラを構える行動とそれによって「切り取られて残る像」を「歓迎するのか警戒回避するのか」このリアクションジャッジを想定した時に、運転教習と同じ発想が大事になる。事故を起こさない為の「かもしれない撮影」だ。
撮り手側に仮にどんなに善意や好意があろうとも、それを突然無防備な相手に向けるのは、向こうにしてみれば暴力以外の何ものでもないのかもしれない。この観念を持って撮影に携わりなさいと、私は教わった。
今の若者、馬鹿者、子供達はこの教育をすっ飛ばしてカメラを手にしてしまっているだろう。デジタルタトゥーなんて言葉も誕生したこの社会だが、逆に自撮りとSNSで承認欲求が満たされる仕組みが蔓延ってもいる。そんな背景も鑑みれば、もしかしたら、今この世は、感情のセンサーがバグを起こした人々による見えない銃弾の飛び交う静かな戦場ど真ん中なのかもしれない。
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