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分岐点

私の目の前には道があります。
この道は長いようで短いような、どこまで続くかわからないもののある程度のゴールは見えている、そんな道です。

道はみんなそれぞれひとつ持っていて、みんなそれぞれの道を歩いています。

私はこの道を30年ほど歩いてきました。長く歩いていると、時々わからなくことが出てきました。
果たして私は『自分の意志で歩いている』のか、はたまたこの道は、実は『道自体が勝手に動いていてただ私はそれに乗っている』だけなのか、それとも『意図しない形で何者かに歩かされている』のか、このあたりがよくわからなくなることがあります。

ただ、ひとつ確実なのは『前に進んでいる』ことだけは確かです。

分かれ道

この道には不定期に分かれ道が出てきます。
分かれ道と言っても、十字路のように直角に曲がる道ではなく、まっすぐ進む道の途中で、緩やかに逸れていくような分かれ道です。どちらの道も真っ直ぐ進むのと変わらない、そんな分かれ道があります。

分かれ道に差し掛かると、信号が出てきます。
いつもどおりの道の信号は青です。例え自分の意思で歩いていようが、何者かに歩かされてようが、特に何も気にすることなく進む道はずっと青信号です。一方、逸れていく道は基本赤信号です。通常、そちらの道を選ぶことはありません。

ただ、長い道のりの中でたまに、両方の信号が青のときがあります。
もちろんどちらの道を進むのもそれぞれの自由ですが、逸れた先が道の終わりだということは、わかります。

それでも行きたくなるときがあります。
逸れた道へ。終わりへと続く道へ。
自分の意志で前に進んでいるのがわからなくなったとき、せめて行き先くらいは自分の意志で決めたくなって、これが自分の道ということを証明したくて、進行方向をわずかに逸らすのです。

誰もがこの道に終わりがあることを知っています。
終わりまでただ運ばれることに抗いたくて、終わりまで何者かに歩かされ続けるのが嫌になって、逸れた道が終着点への近道に見えてしまいます。

何度も、逸れてやろうかと思うことはありましたが、私は何とか真っ直ぐの道を前に進んでいます。
悔しいからです。勝手に運ばれていることも、だれかに歩かされていることも、どちらも許容できるものではないのです。でも、『自分の意志で歩いている』確証は持てないままです。

もしかしたら、最後までそれは持てないままかもしれません。
でも、それならそのときでこう言ってやるのです。

「私は私の意志でここまで運ばれてやったぞ」と。
「私は私の意志でここまで歩いてやったぞ」かもしれません。

そのときのために、逸れた道へは行かないのです。

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